Jomon.net 日本語文法 新理論
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共有されるべき認識



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“共有されるべき認識”「の」をつけて認識をファイル化する

私たちの発話には、認識そのままで発話する場合と、認識をファイル化して発話する場合とがあります。

なにを言ってるのかさっぱりわからないと言われそうなので、例文をごらんください。

 (1)「明日東京へ行く。」
 (2)「明日東京へ行くの。」

(1)は、「行き」の請け合い「行く」をそのまま発話しています。
(2)は、「行き」の請け合い「行く」を「の」で綴じてファイル化しています。

「の」という語は、形式名詞などと呼ばれますが、日本語にはこの「の」をつけた発話文と、つけない発話文と、二とおりの発話文があるということができます。

 (3)「私は行く。そして戦う。」
 (4)「私は行くの。そして戦うの。」

(3)では「行き」や「戦い」を請け合った認識そのままを発話しています。認識の生(なま)を発話しているということになります。

(4)では認識のままでなく、ファイル化しています。「行き」や「戦い」を請け合うという認識をひとまとめに綴じてファイル化したものを発話しているということになります。
▽生の認識をそのまま発話する場合
事象=「行き」→(請け合い)→「行く」

▼ファイル化して発話する場合
事象=「行き」→(請け合い)→「行く」→(ファイル化)→「行くの」

「の」で綴じたファイルは、そのファイルをさらに請け合ったり受け止めたりすることもできます。

 (5)「ここで食べてはいけないのだ。」

この場合、「ここで食べてはいけない」という生の認識を「の」で綴じてファイル化することによって、それが「生の認識」ではなく「すでにファイル化されたもの」であるという意味へと変換されています。

その「すでにファイル化されたもの」に「だ」がついて、ファイルを請け合っているのが(5)の発話なのです。

「ファイル化」について、もう少し詳しく見ていきましょう。

例えばこんな発話があります。

 (6)「あれは山。これは川。」

発話者の頭の中には、「山」というファイル、「川」というファイルがあります。ファイルとはつまり“単語カード”のようなものですね。
「あれ」を認め、該当する単語カードを頭の中で検索します。
(6)は、単なる検索を検索のまま「山。」、「川。」と発話しているわけです。そこには請け合いもなければ受け止めもありません。

 (7)「あれは山だ。これは川だ。」

(7)では、ファイルの検索にとどまらず、「だ」によって請け合い(主観の最も基本的な認識形式のひとつ)を加えています。

 山(検索)+だ(請け合い)

ここへさらに「の」を加えると、「山だ」という請け合い全体がファイル化され“検索対象化”することができます。

(8)「あれは山なの。これは川なの。」

「山だ」の「だ」が「な」に変わっていますが、「な」はいわゆる「連体形」というやつで「だ」と同じ意味ですね。
「山」というファイルに「だ」という請け合いがつき、さらにその全体を「の」でファイル化した発話、それが(8)の発話です。
そこへさらに「だ」で請け合ったり、「だった」で受け止めたりすることもできます。

 山なの(検索)+だ(請け合い)

このように、「山だ」という請け合い全体を“検索対象化”(ファイル化)することによって、請け合いが“生(なま)の認識”ではなくなります。本来が誰かの主観による生の認識にすぎなかったことが、ファイル化されることよって意味を変えるんですね。

どんな意味に変わるかということについては、“ファイル化”という、私たちの認識のしかたがキーワードになってきます。
たとえば「共有可能」という意味にもなるでしょう。
「山」であれ「川」であれ、ファイル(単語カード)というものは、相手としっかり共有されていてはじめて使用できるものだからです。外国語の人とではこれが共有されていませんから言葉が通じませんが、日本語と日本語であれば、お互いに同じファイルを頭の中にもっていることが大前提です。

ですから、「本来が誰かの主観による生の認識」であっても、それを「の」でファイル化することによって、その認識が共有されるべき認識ですよという意味合いを加えることができるのです。

 (5)「ここで食べてはいけないのだ。」

…という発話には、「ここで食べてはいけない」という生の認識ではなく、誰もが共有可能な認識、それはつまり“決まりごと”という意味にもなってきます。

以上のように見てきますと、「の」によるファイル化とは、“認識の共有化”ということもできそうです。

もちろん、“共有”といってもそれはあくまでも話者の主観の域を出ませんから、話者が一方的に「共有されるべき認識である」と言っているだけのこともあって、「客観的表現」であると規定することはできません。
あくまでも、「(「の」をつけたのだから)これは自分の生の認識ではないのだぞ。」と話者が表現しようとしているということです。

(6)
 先生「ここ、違ってるよ。」
 生徒「違ってませんよ。」
 先生「違ってるの。」

先生は初め「違ってる」と“生の認識”を発話しました。
それに対し生徒も「違ってません」と“生の認識”で反論しました。
そこで先生は、「の」をつけて、“共有されるべき認識”であることを表現しています。生徒よりも一段高いところから物事を見ているのだという姿勢も表現されるかもしれません。

(7)
 先生「ここ、違ってるよ。」
 生徒「違ってないんですよ。」
 先生「違ってるの。」

今度は、生徒が「違ってない」に「ん(=の)」をつけ、さらに「です。」で請け合っています。
こうなると先生は、生徒が示した“共有認識”が決して共有できないものであることを表現する必要が出てきます。
しかし先生は(6)のときと同じ「違ってるの。」だけで反論していますから、先生のこの発話は比較的落ち着いた態度にもなります。

しかしここで先生が…

(8)「違ってるんだよ。」

…と反論したとしますと、生徒のおこなった“共有すべき認識の請け合い”に対して、先生がさらに“別の共有認識の請け合い”をしたことになります。
請け合いと請け合いがぶつかるわけですから、(7)の時に比べますと、比較的感情的な発話だと見ることもできます。


平成18年4月7日  興津 諦
平成18年4月16日 加筆修正(青字箇所
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