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真説 日本語文法

“主観”対“ものごと”という視点が日本語文法を説き明かす。
01    形態論(Morphology)は日本語から

日本社会の変なところというのが昔からいろいろと指摘されておりますが、いまだに建前のわりには曖昧にされているルールが多いですから、なかなか外国人にわかりのいい社会にはなっておりません。

もっとも、各国それぞれに外国人が首をかしげる面をもっていてこそ、国というまとまりが保てたりもするんでしょうから、どこの国も同じようにわかりのいい原則を尊重する必要はないのでしょう。
要するに、ひとつ国の中に暮らす国民が、そろって協調できる呼吸があればいいのでしょうね。

しかしグローバリゼーションなるものをアメリカ方面から押しつけられるようになって、「日本には日本独自の」というやり方では許されない面が増えてまいりました。
実はそもそも、アメリカなどに指摘されてしまうのは、同じ日本人であっても納得のいかない面であったりもするものでしょうから、各省庁や業界といった狭い仲間内では通っても、その外部にとっては曖昧模糊として明快な説明が難しいなんてことは、やはりどこか間違っているわけです。

たとえば、自動車やオートバイの運転免許を持ったことのない人にとっては、「制限速度」の問題も、きっとわかりにくいものでしょう。
日本の警察が速度違反の取り締まりをやって、捕まえるのは「20キロ以上オーバー」ということになっているようです(静岡県警だけ?)。しかし道路交通法上は10キロオーバーでも立派な違反のはずです。しかし日本の警察は、その程度では違反とはしません。
ドライバーにとっては「ありがたい(?)」ことなんですが、ドライバーになったことがなくて、いつも歩行者しかしていない人にとってみれば、これは大変に困った話です。いわゆる由々しき問題というやつですね。

まあ、この程度のこと(と言ってしまうと由々しき発言だと言われる向きもあるかもしれませんが)は、どこの国でもあることなんでしょうけれども、矛盾に見えながらもなぜちゃんと機能しているのか、それを言葉で説明できるかどうかが問題なのだと思います。

そして、日本人が真っ先に解決しなければならない最大の問題は、日本語の形態素(検索対象にならない語)をいまだに体系的に説明できるようになっていないことなのではないかと思うわけです。

これはもちろん、日本語だけが遅れているわけではなくて、外国語も、特に大人口を擁する英語やフランス語や中国語などが、検索対象にならない語を無理矢理に検索対象語の枠の中へと押し込め、無理に「進化」させてきたために、その無理・出鱈目に対して負けているということにすぎないのだと考えております。

日本語を説き明かすということは即ち、そうした“世界標準の無理”を指摘してやるということになるはずです。
(0504010)
02    説明しやすい語としにくい語

「検索対象にならない語」というのがあるという前提で、いきなり話を始めてしまいましたが、ここで確認をしたいと思います。

たとえば、「あの先生が?」というときの「が」です。
「が」は、助詞という分類をされていますが、これについての論文が、研究者のみなさんによって膨大に書かれてきており、そしてそれはまだ果てるところがありません。
つまりそれは、「が」とは何か?に対する明確な解答に達していないからにほかなりません。

ではどうして明確な解答が見つからないのかといえば、それは、「山」「歩き」「花吹雪」などの語のように、意味の説明が具体的にできる語との、“ある種の混同”が原因ではないかと考えています。

大辞林(第二版 三省堂)に聞いてみましょうか。以下は各項目の上の方に書かれているものからの抜粋になります。

「山」
(1)周りの土地より著しく高くなった所。古くから信仰の対象となり、俗世間を離れた清浄の地とされた。
(2)鉱山。
(3)(1)の形をしたもの。
(ア)庭園などに小高く土を盛って作ったもの。築山。
(イ)物をうず高く積み上げたもの。
(ウ)数量がきわめて多いこと。
(4)物の一部で、高くなっている所。

「歩き」
(1)歩くこと。徒歩。

「花吹雪」
吹雪のように桜の花びらが乱れ散ること。

・・・このような説明になっていますが、どれも具体的で、日本人(日本語を母語とする人)なら理解できる説明になっています。

では、それに対して「が」はどう書かれているでしょうか。

「が」
→ちょっとこれは長い記述になっていますので、別ウインドウで開きます。
「が」


さてこれに一通り目を通してみて、要するに、「が」とは何のことか?私たちは理解できるでしょうか?
  1. 「よくわかった」
  2. 「だいたいわかった」
  3. 「なんとなくわかった」
  4. 「よくわからない」
  5. 「全然わからない」

以上の1〜5の中から理解の程度を答えるとすれば、ほとんどの人が、3以下、あるいは4以下となるのではないでしょうか。

理解の程度を、「理解して使えるようになるかどうか」で考えてみますと、もっとはっきりした違いがわかるでしょう。
つまり、説明を理解すれば自分でも使えるようになる語が「山」などの語で、説明を理解したとしても使えるようにはならないのが「が」だということができます。

* * * * *

「山」などのように、実質的な意味のある語を「semanteme(意義素)」というのに対して、「が」などのように、実質的な意味はないけど言葉を使う上で必要な語を「morpheme(形態素)」と呼んでいます。

このサイトで考えていこうとしているのは、その「形態素」なんですね。
そして「形態素」を考えようとすることを「morphology(もーふぉろじぃ=形態論)」といいます。

さて、意義素と形態素、私が着目したいと思っているのは、私たちが言葉を使うとき、それぞれをどのようにして選んでいるかということなんです。

まず意義素の方は、こういえば皆さんにも納得していただけると思うんですが、つまり、私たちの頭の中に単語カードのようにして入っていますよね?

「山」「川」「海」「そら」などの単語は、それぞれに実質的な意味をもっていますから、目に映るその形などから、それをどう呼ぶかをおぼえています。おぼえているのは、頭の中にそれぞれの単語と意味を結びつけたカード、あるいはファイルをストックしているからでしょう。

そしてそれを使うときに、

 ええと、こういう形でこのときこういうふうに使ってこんな線が引けるこの道具は…
 …「からすぐち」だ。

というように、頭の中のファイルから、カードを引っ張り出してきて「からすぐち」という言葉を使っているわけです。

ところが、実質的に意味はないという「形態素」となりますと、私たちは日頃どうやってそれぞれの語を選び出して間違わずに使っているのでしょう?

日本や世界には、日本語学習者、つまり日本語は使わずに育ってきて、ある程度成長してから、教室や教科書などで日本語を勉強している人たちがいます。

私は彼らに教室で日本語を教えてきた経験が約5千時間ほどあるんですが、その中で、学習者が日本語でどんな間違いや勘違いをするかをたくさん経験してきました。また、学習者との十年に及ぶ結婚生活というのも経験してきたので、一般の日本人である皆さんよりも、日本語の難しさというものをよく知っているつもりなんですが、そんな中、学習者がよくする間違いというのは、ほとんどがこの「形態素」の使い間違いです。

「意義素」についてはどうかと言えば、これは、日本語で育ってきた私たち日本人でも間違えます。しかし、私たちが「形態素」で間違えることはほとんどありません。

それに対して、日本語学習者は、「形態素」でたくさん間違えて、「意義素」での間違いは、私たちと同程度でしょう。

さあ、ではどうして、こんなにはっきりした違いが出てくるのでしょう?

* * * * *

日本語で育ってきた私たちは、「が」などの形態素をあまり間違えないで使っているというのに、外国人などの日本語学習者は間違えがちだという事実があることを書きました。ではそれはなぜなんでしょう?

学習者の人たちというのは、意義素でも形態素でも(実質的な意味のある語でもない語でも)、ほぼ同じように教科書や辞書などの説明や用例を頼りにして学習し、さらに実際の練習で間違えながらも繰り返し努力していくという方法をとっています。

それに対して私たちは、学習者が読んできたような説明をまったく知らずに、形態素を習得してきています。 むしろその「説明」に関しては、私たちはみな不得手で、「が」って、要するにどういう意味ですか?なんて聞かれても、普通は返答することができません。

先に見たように、それは大辞林などの大きな辞書を見てもやはり、要するにどういう意味なのかという答えは書かれていないのです。

ということは、「が」などの形態素というのは、途方もなく難しいものなのだ、ということができるのかもしれませんね?

しかし、子供でも「が」ぐらいは間違えずに使っているものです。ということは、「途方もなく難しいもの」という見方は正しくないということにもなってきます。

さて一体、形態素は難しいものなのか、あるいは簡単なものなのか、この問題に答えるのも容易ではないように思えてきました。

そこでとりあえず、これだけは間違いなさそうだということを以下にあげてみます。
  • 私たちは、形態素を間違えずに使っている。
  • しかし私たちは、形態素を無意識に使っている。
  • 形態素の選び方は無意識にしていることなので、なかなか説明できない。
  • それに対して意義素は、意識的に検索して使っている。(瞬間的に検索できてしまう語もありますが)
  • 意義素は、外国人の日本語学習者でも比較的間違いなく習得できるが、形態素は非常に難しい。

以上の一番大事な点をまとめますと…
  • 意義素は意識的なもの
    (語を選ぶときに単語カード検索をしている)
  • 形態素は無意識的なもの
    (語を選ぶときに単語カード検索をしているとは思えない)
…ということになります。

というわけで、形態素を説明しようとして、意義素で説明するように客観的な基準で説明しても、到底わからない説明にしかならないということなのです。

意義素は、“実質的=客観的な概念”というものを表しますが、形態素はそうではないからです。

* * * * *

ここからは、形態素が表すもの、伝えるものについて見ていきましょう。
たとえばこんな言葉があります。
「地面が見えちゃったりしてね」
これは東京などで使われている、ごくごく普通の言葉です。
「この家は相当に古くてぼろいから、もし購入したとしても修理が大変で住みにくいだろう、床が抜けて地面が見えるなどというようなことだってあり得る。」というような意味合いで使われた言葉かもしれません。

さてこの言葉を、意義素の部分と形態素の部分に分けてみますと、次のようになります。
意義素:「地面」「見え」
形態素:「が」「ちゃったり」「してね」

※「し」は、「する」という動詞ではありますが、この場合、実質的な意味を指してはいないので「形態素」と見るべきでしょう。
普段の生活の中で交わされる言葉を注意深く聞いていると、日常的な言葉のひとつひとつの発言の中には、それぞれに意義素も形態素も同じような分量で入っているということがわかると思います。

さて、上にあげてみた言葉の例ですが、これを以下のように言い換えるとどうなるでしょうか?
  1. 「地面が見えたりしてね」
  2. 「地面が見えてね」
  3. 「地面が見える」
  4. 「地面見え」
1から4まで、どれも「地面が見えちゃったりしてね」とはニュアンスが違っています。
実質的な意味に関しては大差ないというか、ほとんど同じ意味なんですが、ニュアンス、つまり色合いが異なるわけです。

ではその色合いというのは何なのでしょう?

これは、発言した人の態度や気持ちだと見ることができます。
話をする相手に対する態度・気持ちだけでなく、話の内容に出てくるものごとに対する態度や気持ちが形態素に表れています。

もちろん、話すときの抑揚や語気などでもそれは表せますが、形態素を上手に使えば、静かな一定の口調のままでも、微妙な気持ちを相手に伝えることができるのです。
(0504011)
03    説明しきれる別の方法

ここまでをまたここでまとめてみます。
  • 形態素は、説明できない。(あるいは非常に説明困難。)
  • つまり形態素は、“客観的な概念”ではない。
  • そして形態素は、話す人の、相手やものごとへの態度や気持ちを表すと見ることができる。

今までの研究では、たとえ説明困難な形態素といえども、説明しやすい意義素と同じように説明してやろうという姿勢で、説明の試みが行われてきました。

その姿勢とは、「客観的観察」にもとづく「客観的説明」ということなんですね。
客観的に説明できなければ説明できたことにはならない、というのが研究の基本姿勢だと言えるでしょう。

もちろん、この姿勢でいくら形態素が説明できないからといっても、この姿勢自体を誤りだということはできません。
しかし一方で、“説明できない”あるいは“説明しきれない”という事実が厳然としてここにあるのです。
ですから、従来の研究のしかたのどこかが間違っているということを認めるしかないのではないでしょうか?

私たちは日本語の中で育ってくるうちに、「自然と」、日本語の形態素を「正しく」習得してきました。
「正しく」なければ、お互いに話の意味や気持ちが通じませんから、この形態素を「正しく」習得するというのが、日本語習得の基本中の基本です。

その基本ができた上で、「単語」である意義素を増やしていく、つまりボキャブラリーを増やしていくんですね。
ボキャブラリーだけ増えて、形態素の使い方が「正しく」なければ、言葉を正しく伝え合うことはできません。

日本語で育った人と、そうでない人との最大の違いは、形態素を正しく使っているかどうかなのです。
そして、いくら説明されてもそれだけでは習得できないのが形態素であり、説明だけで習得できるのはボキャブラリー(意義素)だけなのです。

ではいったい、形態素とは何なのでしょうか?

ここまでで述べてきたとおり、形態素とは、客観的概念ではないものを表し、客観的な説明はできません。
ということは?と考えたら、客観ではないのですから「非客観」=「主観」だと見るほかありません。

では「主観」とはいったい、何なのでしょう?
仮に「意識や心の動きや営み」であるとして、そんなものを客観的に説明することはできるのでしょうか?

(1)「あの先生が?」
(2)「あの先生も?」
(3)「あの先生は?」
(4)「あの先生に?」

(1)から(4)まで、それぞれに異なる助詞が使われた発言です。
従来の説明では、だいたい次のようになります。(三省堂『大辞林』より抜粋)
  1. 主格を表す。
  2. 希望・能力・好悪などの対象になるものを表す。
  3. 指示語に付いて、接続詞のように用いる。

  1. 類似した事物を幾つか取り出し並べて提示する。
  2. 他にも類似の事物が存在することを言外にほのめかす形で、ある事物を提示する。
  3. 不定を表す言葉に付いて、全面肯定・全面否定を表す。
  4. 極端な事物を提示し、強調する。…さえも。

  1. 特に一つの物事をとりあげて提示する。
  2. 題目を提示して、叙述の範囲をきめる。
  3. 二つ以上の判断を対照的に示す。
  4. 叙述を強める。

  1. 時を指定する。
  2. 場所・範囲を指定する。
  3. 目標・対象などを指定する。
  4. 帰着点や動作の及ぶ方向を表す。
  5. 動作・作用の起こる原因やきっかけを表す。
  6. 比較・割合の基準を表す。
  7. 動作・作用の起こるみなもとを表す。
  8. ある資格をもつという意を表す。として。
  9. 変化する結果を表す。
  10. 動作・状態の行われ方・あり方を表す。

説明事項それぞれの用例は省きましたので、ぜひ『大辞林』をご購入の上、ご参照願いたいと存じますが、さてこうした説明から、私たちは話し手の「主観」を想像することができるでしょうか?

それぞれの助詞がどんな場面で使われているかという客観的な観察にもとづいた説明ですから、主観そのものについての深く突っ込んだ説明にはなっていません。

つまり、客観的説明に努めれば、主観の説明は二の次となり、主観そのものを説明する努力というのは、中途半端であってもよいというような話になるのです。

「が」「も」「は」「に」がそれぞれ、要するにどういうものなのか?
これに答えるには、主観そのものに突っ込んでいかなければならないはずです。
しかしこれまでの研究では、そうした主観本位の研究は、また別の世界の話であって、形態論では扱わなくていいことであると見てきたかのようなのです。

* * * * *

私はこの稿のテーマを、Morphology(形態論)としていますが、形態論=主観の説明であると考えています。

客観的にどんな場面で、どんな状況で、形態素が現れるのかという議論は、これまでの研究を継続している研究者の皆さんにおまかせして、私はまったく別のところで、主観がどういう時にどんな形態素が現れるのかを説明していこうというわけです。
(0504013)
04    主観とは?

世の中には、言葉で説明できるさまざまなものごとがあります。私たちはそのものごとを認識し、ものごとは私たちによって認識されています。

つまりここに、認識する側とされる側という相対する二つの領域があります。そして、“主観とは、認識する側である”と見ることができます。

認識の対象となるものごとは、私たちの外の世界のことから、「痛み」、「空腹」、「快感」などといった私たち自身の体のこと、さらに「喜び」「恐れ」「怒り」など、私たち自身の感情のこと、さらに「考える」「わかる」「見極める」などといった私たちの思考のこと、「おぼえている」、「忘れた」などといった記憶のこと、「ふと思う」、「そんな気がする」などといった漠然とした判断のこと・・・と、私たち自身の奥へ奥へと入っていきます。

しかし、どれぐらい奥までを認識の対象としているかには、限界があります。限界を超えて、さらに奥へと行きますと、認識の対象とはならないからです。

私などは記憶力が弱くて忘れっぽいので、はっきり記憶していることがもともと人より少ないのですが、この記憶も、今まで生きてきた日々のあらゆることを、何から何まで全部はっきり記憶していたらかえって面倒でしょうから、適度に忘れたり、せいぜいたまに思い出したりして頭の中がすっきりしていられるようにできているのかもしれません。しかし実際は完全に忘れているというわけでもないようで、何かの拍子にふと思い出したり、思い出さないまでも日頃、諸々の判断に影響を与えたりしているのでしょう。

「今ふとそんな気がした」ということは、何にもとづいているのかわからないことだったりするわけですが、ともかく、「自分が今、そんな気がする/した」というのもまた、私たちが認識の対象としているものごとです。

つまり、“認識する側”である“主観”とは、自分の感情や思考や判断までも、自分の外側の世界の諸現象と同列のものとして認識しているものなのだということになってくるのです。

そしてさらにここで注意しておきたいのは、自分自身では認識の対象とはならないながらも、主観は確かに、いろいろなことをおこなっているということです。認識できないからといって、主観は存在しないわけではなく、自らの存在を認識しづらいながらも、確かに自分の奥深くにあるのだということです。
(0504014)
05    難しいことはしていないはず

以上、“認識する側であって認識の対象とはならないもの”=“主観”であるということを見てきました。

主観は確かに私たちの中にあって、あるいは私たちの自己そのものとして、ものごとの一切を「深いところ」から認識しているようです。

しかしその「深いところからの認識」という行為自体は、主観自体がさらにそれまで認識していたら混乱が生じるためなのか、「これより深いところは認識しない」という領域がもうけられていて、そこでおこなわれているのだと見ることができます。

この「領域」を便宜的に、「主観領域」(←そのまんまですが)と呼んでおきます。

このように認識の対象とならない領域があるということはつまり、説明困難な形態素の使い方も、この「主観領域」でおこなわれているためであると考えてよいでしょう。


主観とものごと。認識する側、される側。


ここでちょっと、説明困難な会話例をあげてみます。

(会話例1)
Aさん「昨日の薬、効いた?」
Bさん「うん。効くよ。」
Bさんは、なぜ「効いた」ではなくて「効く」を使ったのでしょう?
「効いた?」と聞かれているのですから、「効いたよ」と答えてもよかったはずです。

(会話例2)
Aさん「明日いっしょに行けるんだよね?」
Bさん「明日は授業だった。」
Bさんは、なぜ「だ」ではなく「だった」を使ったのでしょう?
明日のことですからまるで過去のことのように「だった」を使わなくてもよかったはずです。

実はこれらの問題には、従来の文法によっても説明がなされていて、それを読めば「ふうん、なるほど…。」と、およそ納得することもできるようですが、従来の文法による説明というのは、あくまでも「客観的」というものを絶対としていて、私たちが「客観的な思考や判断」にもとづいて形態素を使い分けているのだというかのような話なのです。そんなの無理だろと思うのが普通だと思うのですが、「自分で認識できない客観的思考」というのがあって、私たちが無意識に思考して、そこから無意識に形態素を選んでいるのだという前提なんですね。

たとえば上の会話例で見たように、「〜た」を使うのは原則として「過去」のことであるという説明が、従来の文法研究です。
(「完了」という「アスペクト」の用語も使って説明するようですが、なんのことだか、一般の皆さんにはさらにわかりにくいでしょうから省略させていただきます。)

しかし「過去」とか「現在」とかいった時間のことというのは、時間軸とか、座標的なものに照らさないと判断できないことです。とても客観的で論理的なことなんですね。
そんなに論理的なことを、私たちは無意識に、つまり主観領域で自分でも認識できないこととして瞬時におこなっているのでしょうか?

「そう。おこなっているのだ。」というのが従来の文法の立場です。
それに対して、「そんな難しいことはおこなっていないはずだ。」というのが私の立場です。
(0504015)
06    「する/した」「だ/だった」の使い分け
じゃあどうやって「する/した」や「だ/だった」を使い分けられるのか?

そろそろこの話をしましょう。
すでに大修館書店の月刊『言語』や、本サイト「真説日本語文法」で私の主張をご覧のかたもおられるでしょうけれども、ここでは新たに一般のみなさんにわかりやすいものを目指してはじめたということで、これまでの流れの延長で話を進めてまいります。

まず、過去形が先なのか、別の原理が先なのか? という話です。

従来の文法研究では、「過去/非過去(現在)」などという用語で説明されてきた「時制(テンス)」の問題です。

仮説A
「時制」というものが原理で、原理に従って形態素が選ばれている。

仮説B
原理は「時制」とは別のところにあって形態素が選ばれ、「時制」もそれで容易に表現できる。

研究者の中には、できれば仮説Bを採りたいという人が多いことでしょう。
なにしろ、仮説Aを採って「時制」=「原理」としてしまえば、その「原理」から大きく外れた発話が多すぎて、「例外」だらけになるからです。例外のない本当の原理、つまり絶対の基本ルールを見つけないとならないという危機感をもっている人も決して少なくないのではないかと思うわけです。

ところがそんな原理は見つからない。
しかし、なぜ見つからないのかといえば、これまで申し上げてきたとおり、「出された発話を客観的に観察して、その観察から客観的に分析して、客観的説明をしましょう」という、その姿勢がちょっと違うんじゃないかということなんです。

ここまでで述べたとおり、私たちは無意識に、いたって主観的に形態素を選んでいます。全然客観的に選んでもいませんし、論理的に選んでもいません。
それなのに客観的、あるいは論理的に選んでいるかのような前提で原理をさぐっても、当の原理は見つかるはずもないのです。

原理というのは、私たちが自分では認識の対象としていないところ、私たち自身の主観そのものにあるはずです。

ですから「する」「した」の使い分けというのも、私たちの主観による選択がされているはずなのです。
主観には、「座標」とか「時間軸」とかいった、客観的・論理的な「思考」「考察」はありません。人間はそんなに、生まれついての科学者ではあり得ないからですね。

たとえばものごとを判断するときは、「いい」「いやだ」という主観が私たちの基本であること、これなどは説明などしなくても明らかでしょう。
赤ん坊の時は泣くか、笑うか、寝ているか、何かに気を取られるかして育ちはじめ、その延長でどこまでも生きているのです。その一方で、五歳にもなれば立派に形態素も使いこなしていますから、「客観思考を無意識におこなう」なんてことは決してしておらず、あくまでも主観的に、形態素を使いこなしているのです。

以上、考え方の前提を改めて、念入りに確認させていただきましたが、実際の運用はどうなっているのか、まず日本語形態素の基本中の基本というべき、「する/した」の語形についてみてみましょう。

この前の項で図を描いてみましたが、同じものをここでもう一度出してみます。


主観領域とものごとの領域


主観は、紫の線で囲っておりますが、この線の中には、ものごとというものがありません。
ただ、本当にまったく存在しない、というのではなくて、私たちの主観自身が、この線の中のものごとの存在をまるで認識しないのです。ここを主観領域と呼んでみました。

紫の線の外側、だいたい緑色に染まっているところがものごとの領域です。
この領域では、あらゆるものごとが発生し、存在しております。そのものごとを主観が認識しているわけです。

主観領域とものごとの領域、この二つの領域で私たちは生きているわけですが、主観領域というのは私たちの自己そのものでもありますから、ここに「自己」対「ものごと」という、とても単純で基本的な対立があるわけです。

この対立において、自己が主導的になるのか、反対に、ものごとが主導的になるのか、という力関係を、私たちは常に感じて生きているはずです。
自己が主導的な場合は、ものごとに対して自己が「請け合う」態度・姿勢となります。
反対に、ものごとが主導的な場合は、自己がものごとを「受け止める」態度・姿勢となります。

ものごとを請け合う時には「する」の語形となり、反対にものごとを受け止めるときには「した」の語形となります。
「する/した」の使い分けとは、このように、きわめつき単純で基本的な
“「主観」対「ものごと」の原理”
を表したものなのです。
「する/した」のあらゆる使い分けについて、「請け合い/受け止め」だけで完全に例外なく説明ができますから、これが原理であると断じて間違いないはずです。

また、「する/した」「行く/行った」「見える/見えた」「ある/あった」「いる/いた」などのあらゆる動詞をもれなくすっきりと説明できるだけでなく、「よい/よかった」「わるい/わるかった」などの形容詞、「元気だ/元気だった」「静かだ/静かだった」などの形容動詞、「私だ/私だった」「明日だ/明日だった」などの名詞の語尾まで、すべてはこの原理ひとつで説明できます。
(0504016)
07    図でわかりやすく。

以上の説明をわかりやすいように図でご覧いただきます。


“請け合い”とういのは、主観がものごとに対して主導的。
“受け止め”とは、ものごとが主観に対して主導的です。


ここでもう一度確認しましょう。
“主観”とは、ものごとが何もない(主観自身が認識できない)領域から、ものごとの一切を認識しています。

それに対して“ものごと”とは、主観が認識するあらゆるものごとです。

たとえば、話者が自分で「どうだろう…?」と考えて、「わかる。」あるいは「わかった。」という発話をする場合です。

この場合、“ものごと”とは「わかり」です。
「わかり」という“ものごと”が、「わかる」になるのか、あるいは「わかった」になるのか、これを説明してみます。とても簡単ですよ。

▽「わかる」になる場合

  • 主観が「わかり」という“ものごと”に対して主導的な場合。
  • 「わかり」という“ものごと”の発生や存在を、主観が請け合う場合。

▽「わかった」になる場合

  • 「わかり」という“ものごと”が、主観に対して主導的な場合。
  • 「わかり」という“ものごと”の発生や存在を、主観が受け止める場合。


上の図の「わかり」のところを「歩き」「読み」「話し」「食べ」「有り」「着き」・・・など、別のどんな動詞にかえても同じことです。

また、「良い」や「ない」などの形容詞だったら、「わかり」のところに語尾の「い」を取って入れ、“うけあい”なら「良い」「ない」に、“うけとめ”なら「良かった」「なかった」になります。

そして形容動詞や名詞なら、「静か」「元気」「山」「献立」などの単語をそのまま「わかり」のところに入れ、“うけあい”なら語尾が「だ」に、“うけとめ”なら語尾が「だった」になるのです。
(0504017)
08    「ある」は存在しているじゃないか? という話。

「請け合い(うけあい)は、主観がものごとに対して主導的。」ということなんですが、このことでちょっと混乱される向きもあるかもしれない、という話です。

といいますのは、いくら説明されても、「客観思考」というものからはなかなか脱しきれなくて、「請け合い/受け止め」についても、私がいくら「主観の話ですよ。」と念を押しても、「実在」であるとか「現実」であるとか、「事象が発生しているのかしていないのか」とかいったように、なにがなんでも「客観的事実」というものを「形態素の発話」に直結して考えようとしてしまうんですね。

かくいう私自身、「請け合い/受け止め」を自分で提唱しはじめのころには、やはり「客観思考」からなかなか完全には脱しきれずに混乱したものです。

たとえば、こんな混乱です。
発話者が、「ある!」と発話した場合、それはたいてい、ものごとが「存在」している時である。もし存在してなくて「ある!」と言う場合は、「あるに違いない。」というような「想像や思考の延長にある確信や判断」を表すのである。「存在」しているにも関わらず、それを存在していないかのように説明した興津の「請け合い」というのは、やはり例外が多い、というか、例外の方がむしろ多いのではあるまいか?(笑

このような混乱は、形態素の“意味”というものを、「存在」かどうか、といった「客観的事実」に直結させて考えてしまうことによるものです。

「請け合い/受け止め」というのは、「ある(請け合い)」=「非存在」であるとか、「あった(受け止め)」=「存在」であるとかいった、客観的事実に直結させた話はしていないのです。

「請け合い/受け止め」というのは、あくまでも、“主観対ものごと”という対立関係において、どっちがまさるか、どっちが主導的か、どっちがエライか、という話なんですね。

とはいえ、「あり」に関しては、「あり」の語義そのものが「存在」ですから、このような混乱が出てくることもままあると思います。

でも形態素を考える上で大事なのは、私たち自身の主観がものごととどういう関係になっているのかということですから、客観的に見てどうなのか、存在しているのかしていないのか、といったことは、そもそも問題にしておりません。客観的事実と発話の関係というのは、また別の話なんですね。

ものごと「あり」を主観が請け合えば「ある」になります。


ものごと「あり」を主観が請け止めれば「あった」になります。

(0504018)
09    普通は、無意識ですよね。

4月16日の“「する/した」「だ/だった」の使い分け ”から、一気に「請け合い/受け止め」に話を進めたため、展開がちょっと早すぎたかもしれないと心配になっております。

またここでまとめてみます。
まず会話例からです。

(会話例3)
隣の部屋の電気がつかないので、Bさんが修理をしていましたが、どうやら終わったようで、Aさんが待っているこちらの部屋にもどってきました。
Aさん「どう?」
Bさん「つくよ/ついたよ」

「/」を入れていますが、つまりBさんの答えは、「つく」「ついた」のどちらでも、この場合は正しい日本語になるわけです。

これについて、従来の客観的なる文法説明では、およそ次のようになります。
「つく」は、「現在」あるいは「非過去」という客観的な時間軸に照らした客観的な時点を表す。この場合、「修理によってついた」という客観的過去の事象には着目せず、「電気は現在もつく」という客観的現在の事象に着目しているという意味になる。

「つく」は、「習慣」や「習性」、あるいは「状態」を表す。この場合、「電気はつく」ということで、客観的に習慣や習性、あるいは状態にあることを認めているという意味、つまり「修理した電気は客観的にみて今後も継続して点灯する状態にあると認められる」という意味になる。

「ついた」は「過去」という客観的な時間軸における客観的な時点を表す。この場合、「点灯」という客観的な事象が客観的過去において発生したため「ついた」と過去形になる。

「ついた」は「完了」という客観的な状態変化における客観的な状態を表す。この場合、「故障→点灯」という客観的状態変化において、「点灯」という客観的状態の客観的な完了をみとめているため、このような発話となる。

「ついた」は「発見」という、話者の認知行為を表す。話者は電気の修理をおこない、点灯するかどうかをチェックしたところ、「点灯」という客観的事象を「発見」したため、このような発話をしたものと考えられる。

なんとも客観的で、ある意味「わかりやすい」のかもしれませんね。
しかしこうした説明には、あらゆる事例に共通して適用される原理・原則というものが、ないのです。
これらの中のひとつの説明によって、たしかに何千、何万、何億もの事例が説明できます。
しかし、“ひとつの説明”で全てを説明することができないわけです。
つまり、「する/した」の原理には決してとどかない、複数の、互いに異質な説明をダブル・トリプルに使わないとならないのです。
つまりダブルスタンダード、トリプルスタンダード、といった類の理論・論理になるわけですね。

さて私たちは、無意識のうちに、こうした客観的な思考、客観的な判断をおこなっているのか? という問題がまずあります。
そしてさらに、そうした客観的な思考、客観的な判断を、互いに異質な複数の客観基準を混在・混用してまでおこなっているのか? それでいてひとつの語形「した」あるいは「する」になるのか? という問題もあるわけです。

無意識に、そんなに複雑で客観的な思考・判断をおこなうようなことが、5歳の子供も含めた私たちに、果たして可能なのかどうか? という問題ですね。

本サイトは、当然そんなの不可能だ、という立場です。
当然もっと単純な原理があるのだよ、という立場。この立場にたって、「請け合い/受け止め」という主観が「する/した」に直結して表れるという説明をしてきたわけですね。

上の会話例を説明するなら、以下のようになります。

「つく」は、「(電気の)つき」というものごと(事象)をBさんの主観が請け合う発話。
「ついた」は、「(電気の)つき」というものごと(事象)をBさんの主観が受け止める発話。

・・・説明は以上です。
しかもあらゆる単語のあらゆる用例・事例についてもまったく同様に説明できます。

* * * * *

形態素を使って話をすると、それを聞いた人は、話した人の主観がどうなっているのかをしっかり受信します。
話し手は何を送信し、聞き手は何を受信するかということを正しく説明するのが“形態論”になると思うわけです。

Bさんが「つく」と言えば、Aさんは「Bさんの請け合い」を受信し、Bさんが「ついた」と言えば、Aさんは「Bさんの受け止め」を受信するのです。

このように、請け合い/受け止めを正しく送受信していれば、「過去」や「現在」であるとか、「非過去」であるとか「完了」であるとかいった、時間的・状態的な、つまりものごとの“客観的状況”に関する情報も、かなりのレベルまで正確に伝えることができるのです。

また念を押しますが、“客観的状況”を伝えることができるからといって、その媒体となる形態素を、私たちが“客観的”に選んでいる(=客観思考・客観判断で選択している)わけではないということにご注意ください。

形態素の選び方の基本原理というのは、あくまでも、主観対ものごとの対立関係によるものです。

もっとも、形態素を客観思考・客観判断で選ぶという行為が、まったくないとまでは申しませんよ。
時には、思考能力を動員して、客観的に考え、客観的に判断して、過去であるから「した」を使用しましょう、というような、意識的な選択方法というのもあるかもしれないからですね。

しかし普通は、無意識ですよね。


まとめ

  1. 形態素は主観が無意識に選ぶ。
  2. 主観は、「無意識の客観的判断・思考」など、おこなっていない。(よほど頭のいい人はどうかわかりませんが…)
  3. 主観(無事象領域)は、ものごと(事象領域)と対立している。
  4. 主観とものごとの主従関係・優劣関係が「請け合い/受け止め」という態度・姿勢になる。
  5. 「請け合い」は「する」「だ」の語形に、「受け止め」は「した」「だった」の語形になる。

(0504019)
10    請け合い/受け止めの基本形

前回までの話で、「請け合い/受け止め」=「する/した」の基本原理が、よくおわかりいただけたと思います。

ここで改めて、各品詞(動詞・形容詞・形容動詞・名詞)について、請け合い/受け止めの基本形を表にしておきます。


請け合い 受け止め
動詞
形容詞 かった
形容動詞 元気 元気だった
名詞 だった
請け合い/受け止めの基本形

余談になりますが、ちょっとここで「語幹」の話をさせてください。

動詞「見る」では、「る」が請け合い、「た」が受け止めと、語幹である「見」とすっきり切り離せてわかりやすいのですが、動詞には「五段活用」なんてのもあって、「語幹」とその語尾である「形態素」とをすっきり切り離せません。

たとえば「行く」の「語幹」がどこまでなのか、これには次のような説があります。
  • 「行」が語幹で、「か」「き」「く」「け」「こ」「っ」などが活用語尾。
  • 「行k」が語幹で、「あ」「い」「う」「え」「お」などが活用語尾。
まあ、このへんの話は、大昔から日本語が変わってきていることとか、地方による差などもありますので、「標準語」としてどうかをすっきりさせないといけないというような切羽詰まった話ではないと思いますが、現代語でどうしてもそのへん、すっきりさせようとするなら、私は次のようにしたらいいんじゃないかと思っています。
  • 「行k」が語幹で、「あ」「い」「う」「え」「お」などが活用語尾。
    ただし、「k」は、口蓋化音。
「口蓋化音」というのは、「き」の子音「k」です。
「き」の子音というのは、他の4つ、つまり「か」「く」「け」「こ」の子音「k」とは異なります。

どう違うのかといいますと、「k」を発音するときに、舌の中央ぐらいのところが上あごの固い部分(硬口蓋)に接近しているんですね。これを「口蓋化音」といいます。
それに対して、「か」「く」「け」「こ」の子音「k」は、舌の奥の方が、上あごの軟らかい部分について発音されるので、同じ「k」でも、音声学上は、別の子音ということになります。

「か」「く」「け」「こ」の子音「k」は、仮名で書こうにも書けませんが、「き」の子音「k」は「き」の一種類しかありませんから、仮名では「き」とすればいいことになります。

そうすると、「行k」は、「行き」ということになってすっきりします。

もっとも、「行k」=「行き」ですと、「行k」+「あ」は、「行か」ではなくて「行きゃ」になってしまうので、その点ちょっと不都合ということになりますが…。
でも、「行って」「行った」の活用に関しては、「行k」+「kて」=「行kkて」=「行って」となって、音便変化を説明しやすいようでもあります。
(0504029)
11    「主観/客観」という用語の確認

本サイトで使用している用語の中で、「主観」というのがあって、全体を通して最も鍵となる概念で、「ものごと」に対する「非ものごと」を表すわけなんですが、これが今まで、私の中でも揺れてきました。

約十年前、大修館書店の月刊『言語』に掲載していただいたときには、「認知中枢」だなんて言葉を使ってましたが、それが「意識」になったり、「意識中枢」になったり、「魂か?」なんて書いたこともあったりしました。

今回、一般のみなさん向けにと考えて書き始め、書きながら考えてる部分も多いのですが、簡単に「主観」としたのは、かえってその通りで、良かったのかもしれません。

しかし「主観」となりますと、対するはふつう、「客観」ですよね。
これについてもちょっと、『大辞林』の知識を拝借してみましょうか。
まずは「主観」からです。
しゅかん【主観】

(1)対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき、またそのはたらきをなす者。通例、個別的な心理学的自我と同一視されるが、カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え、これが客観的認識を可能にするとする。

(2)自分ひとりだけの考え。
「―だけで言うのは困る」

〔subject を西(にし)周(あまね)が訳した語〕
(1)のはじめに、「対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき、またそのはたらきをなす者。」とあります。

まさにその通りだと思います。ただし、このサイトでは、「わかる」「思う」「気がする」「思い出す」などの“ものごと”も、主観によって認識の対象となるということをお話ししてきました。

これは、「わかる」「思う」などの“行為”の主体が主観であるのと同時に、主観自身によって行われた「わかる」「思う」などの“行為”もまた、それが“行為”のひとつとして認識されているわけですから、主観自身の認識の対象となると、お話ししてきたわけです。

次に「客観」を読んでみましょう。
きゃっかん【客観】
〔object〕

(1)主観の認識・行為の対象となるもの。主観に現れるもの。世界。かっかん。

(2)特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。主観から独立して存在するもの。客体。かっかん。

〔明治初期の造語で、明治期には「かっかん」が一般的〕
(1)の、「主観の認識の対象となるもの」という意味では、本サイトが「ものごと」としてきたことと同じになりそうですが、(2)のほう、「特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。」という意味も書かれています。日頃よく「客観的に見て」とか、「客観的な説明」などというように使われるのは、(2)のほうですね。

本サイトでは、「形態素を選ぶのは主観である。」ということを前提としていますが、これは特にそんな、私が力説しなくても当たり前のことなんじゃないかと改めて思うところです。形態素を選ぶのにいったい、どこに客観が出てくる余地があるんでしょう?
(0504029-2)
12    二つの研究分野


主観が形態素を決定し意味を伝達する

上の図をご覧になりながら、形態素研究の二つのあり方についてお考えいただきたいと思います。

はじめに図の解説です。

まず、「主観」は「請け合い/受け止め」などによって「形態素」を決定します。
決定・発話された「形態素」は、文脈などとの関わりをもって「意味伝達」を行います。

形態素の運用というものを、私たちはこのような順序でおこなっているわけです。

次に、具体的な事例をあげてみます。
「09 普通は、無意識ですよね。」であげた事例の再掲です。

(会話例3)
隣の部屋の電気がつかないので、Bさんが修理をしていましたが、どうやら終わったようで、Aさんが待っているこちらの部屋にもどってきました。
Aさん「どう?」
Bさん「つくよ/ついたよ」

ものごと:(電気が)つく/ついた
主観 ものごとに対して主導的(請け合い)
形態素 「つく」に決定
意味伝達 現在電気が「つく」
電気が「つく」状態にある。
「つく」ことを保証する態度を示す。
「つく」ことを事前に予言・予告する。
…など、文脈等によって決定
 
本項冒頭の図でもご覧のとおり、「主観→形態素→意味伝達」という順序があって、“形態素はなぜ決定されたか?”という問題を主観そのものから考えようとしているのが本サイトです。

それに対して従来の文法研究では、この順序を…
  1. 意味伝達の事例収集

  2. 形態素がもつ客観的意味の特定
という順番としているわけですね。
本サイトが、「主観の追求」だとすれば、従来の文法研究は「客観の追求」といったらいいでしょうか。

そのように見ると、「主観の追求」と「客観の追求」とが、研究分野としてまったく別のところにあるということがわかると思います。

「主観の追求」では、形態素が決定される根本の原因を突き止めることを目的としているわけですが、「客観の追求」では、現れた形態素が何を意味するのか、主にその分類と普遍的な意味の追求に力が注がれているという印象ですね。

しかしもし、「客観の追求」が、形態素決定の根本原因までさぐろうとするのなら、その手法上、限界があるだろうということを私は申し上げてまいりました。

それは、主観への着目・主観の特定という、肝心の部分が、いつまでもすっぽりと空白のままになっているという現実があるからです。
(050501)
13    主観の動きを伝達する形態素

形態素には、主観の動きを他者に伝達する機能があります。
具体例を見てみましょう。

K君は虫かごでバッタを飼っていたんですが、その日、バッタがまったく動かなくなってしまい、死んだのかと思いましたが、じっと見ていたら、うしろ足がぴくりと動きました。それを見て…

(発話例1)
 K君「足が動いた!」

…と発話しました。これは、そばにいる弟に聞こえるように発話されたものです。
この発話におけるK君の主観を以下のように見ます。


1「足」

「足」は意義素ですから、K君のボキャブラリーにあった「足」というカードを使用しただけです。
ちなみにこの「足」が何ものの「足」であるかは、“死んだようなバッタを見ていた状況”という文脈があるため、「バッタの足」であるということになります。

2「が」

「が」は形態素ですから、主観の動きを表します。
「が」には、「けど」「けれども」に換えられるものと、「の」に換えられるものとがありますが、この発話では「が」のままで、他の助詞などに換えることはできません。
そしてこの「が」は、主観の意識が何かに集中したり何かを指し示したりしていることを表します。

3「動き(=動い)」

意義素ですから、これも検索されるカードです。
ちなみにこの「動き」が何ものの「動き」であるかは、その前後の文脈からわかります。この場合は「バッタの足の動き」であるということになります。

4「た」

「た」は、主観がものごとを受け止めることを表す形態素です。“受け止め”と呼んできています。

5「足が動いた」

K君の主観は、意識が「足」に集中し、「(足の)動き」を受け止めています。


以上のように、K君は形態素を発話することで、自分の一連の主観の動きをそばの弟に伝えているのです。
「足が動いた!」という発話を受けて、弟も「K君の主観の動き」をとても正確に聞き取ることができました。
(050502)
14    客観には直結しないのが形態素です

前の項で見ていただいたことというのは、話し手がなにも「客観」を伝達しようとしなくても、主観の動きをそのまま発話することによって、聞き手にちゃんと言いたいことが伝わるということなんです。

「『足が動いた』という客観的事実を伝える」

…なんていう難しいことでなく、

「意識が足に集中、足の動きを受け止め。」

…という主観の動いたそのまんま。
それを発話することで、客観的事実を伝えることだってできる、かもしれないし、あるいは聞き手から、「目の錯覚だよ!」なあんて、発言を否定されるかもしれないんですね。

それを仮に、

「ぼくは、あくまでも客観的事実を述べただけであって、目の錯覚など断じてあり得ない!!」

…なんて力んだところで、発話そのものは決して、「客観的事実」であるという「意味」に直結しないのです。

直結するのはあくまでも、発話をしている人の主観の動きであるというわけです。
(050505)
15    「主語」よりも大事なこと

前の13と14で、助詞の「が」における“主観の動き”を見ましたが、「○○が○○する」という時の「が」は、「主語」あるいは「主格」を表すということで、学校の国語の問題などでも出題されるところになっています。

「足が動いた」であれば、「足」が主語で、「動いた」が述語であるというようなことですが、これがいわゆる「文法」であるとして、日本の学校では、私たちみながそう勉強してきているところですね。

しかし本サイトでは、そうした「主語・述語の関係」みたいな話は横に置いといて、“形態素が伝える話者の主観”について、そして形態素を、形態素のうちである「助詞」とすれば、“助詞が伝える話者の主観”について考えることが目的になってきます。

「主語」であるかどうかという問題よりも、まずはじめに、私たちの主観(あるいはその意識)がどうやって「助詞」を選ぶかについて考えることの方が大事で、先に考えるべき問題ではないかと思うわけです。

ここで、Mさんの発話例をあげ、「が」「は」「も」という3つの助詞の違いについて説明してみます。


(発話例2-1)
髪がのびたなあ。

(発話例2-2)
髪はのびたなあ。

(発話例2-3)
髪ものびたなあ。

(発話例2-4)
髪のびたなあ。


1「髪」

「髪」は意義素ですから、Mさんのボキャブラリーにあった「髪」というカードを使用したものです。

2「が」

13の節で出したとおり、Mさんの主観(の意識)が「髪」に集中して(あるいは「髪」を指し示して)いることを表します。

3「は」

Mさんの主観が「髪」というフレームで囲うことを表します。

4「も」

Mさんの主観が「髪」を排除せず、「髪」に限定されないことを表します。

5「のび」

「のび」も意義素ですから、Mさんのボキャブラリーにあった「髪」というカードを使用したものですね。

6「た」

Mさんの主観がものごとを受け止めています。

7「髪がのびた」

Mさんの主観は、意識が「髪」に集中し、髪の「伸び」というものごとを受け止めています。

8「髪はのびた」

Mさんの主観は、意識を「髪」というフレームで囲い、髪の「伸び」というものごとを受け止めています。

9「髪ものびた」

Mさんの主観は、意識が「髪」を排除せず、また「髪」に限定もせず、髪の「伸び」というものごとを受け止めています。

10「髪のびた」

Mさんの主観は、「髪」を単に掲げ、髪の「伸び」というものごとを受け止めています。
(※「髪」に助詞がつかないケースですが、このような「助詞なし文」とでも言うべき発話も、私たちは日常きわめて高い頻度で繰り返しおこなっています。)

11「なあ」

「なあ」の前の発話が、必ずしも聞き手を必要としないことを表します。独り言でよく使われます。
(※聞き手に同意を求める「ねえ」に言い換えられる男性言葉の「なあ」というのもあります。)
(050505-2)
16    偽りなく主観を伝えるということ

そうなんでも「主観」だと言ってしまったら、日本語には客観的・論理的な発話がないということになるのか?
日本語で我々は十分に客観的発言をおこなっているではないか?
それを全面的に否定しようという話であるなら荒唐無稽な空論にすぎないではないか?

…というような疑問を、本サイトを読んでお持ちのかたがおられるかもしれないと思いまして、もう少し、客観的であるということはどういうことか、考えてみたいと思います。

例えばこんな発話です。

(発話例3-1)
象は鼻が長い。

この文は、三上章さんという先生が書かれた有名な本の題名にもなっています。西欧の文法を輸入して日本語に無理やり移植するというのは根本的な間違いであると指摘された偉大な先生の業績は、いまでも非常に評価が高いようですが、従来の文法研究というのはあくまでも「客観的手法」でおこなわれているものですから、これまで申し上げてきたとおり、本サイトでは横に置いておくということで触れずにおきます。

さてこの文を、「意義素」(緑色部分)と「形態素」(藤色部分)に区切った表にしてみます。

発話
主観 象←囲い 鼻←指し示し 長←請け合い

「は」には「囲い」という主観が表され、「が」には「指し示し」という主観が表され、形容詞の「い」には「請け合い」という主観が表されて、聞き手に向けて、話し手の主観の動きがほぼそのまま伝達されます。

これと比較するために、もうひとつ、面白い発話例をあげてみます。
「助詞なし文」で、活用語尾(動詞・形容詞などの活用変化する語尾)もない文です。

(発話例3-2)
象、鼻、なが!

こんな文あるもんかい!…などとおっしゃらないでください。
このような話し方が、学校などで流行っているらしく、うちの子供たちも毎日使っています。「なが」は「ながっ」と表記してもいいかもしれません。

「日本語の乱れだ!」と嘆きつつも、日本語以外のなにものでもありませんから認めざるを得ないでしょう。そもそもこうした助詞なしで単語を単に掲げるだけの発話も、なしでは通らないものですから、私たちは毎日これを使って暮らしていますし、形容詞の語尾を言わない発話にしても、それを「特殊だ」などと言ってしまったら、関西方言などを否定するといった愚行にもつながりかねません。

日本語はなにも、「文法研究者」の都合通りには行われていないからですね。
それよりも、“生きた日本語の都合”を謙虚に受け止めることが必要なはずです。

もっとも、子供たちや日本語学習者から「なんだ、この言い方のほうが簡単じゃないか!」と多用されて、大事にしたい「助詞」や「活用語尾」などの「辞」とも呼ばれる「形態素」をないがしろにすることは、日本語にとって決して望ましい話とはならないでしょうから、その点は気をつけるべきでしょうね。

形態素を使うことによる伝達と、使わないことによる伝達、その両方がちゃんとできてこその日本語なのですから、どちらか一方にばかり偏向することは避けたいものです。

発話 なが
主観 象←    鼻←    長←   

この表では、主観の欄にある「←」の右側を空白にしてあります。
前の項であげた(発話例2-4)「髪のびたなあ。」で触れたとおり、「髪」という検索対象の「意義素」を“主観が単に掲げるだけ”の発話だからですね。

「象、鼻、なが!」

こんな文でも、「単に掲げる」という主観の動きが、ちゃんとそのとおりに伝えられるわけです。

とにかく、言葉をつかう上で一番大事なことというのは、“話し手の伝えようとすることが、聞き手にちゃんと伝わる”かどうかであって、それに尽きるはずです。

言葉の運用において、話し手と聞き手は、話し手から発話された内容を共有しようとするわけですが、共有が成し遂げられるかどうかの条件となるのは、「言わんとすることがちゃんと伝わるかどうか」というこの一点です。

ちゃんと伝わりさえすれば、言葉が正しく運用されているということになります。
そして内容がしっかりと共有されれば、互いの認識に照らし合わせて、内容の妥当性というものを確認し合うことができます。ここにはじめて、「客観」というものが成り立ちます。発言の最初から、「この発話は前提として客観である」などという一方通行はあり得ないんですね。

これを順序立てて見てみますと、「客観」が成り立つかどうかというのは…

(1)まず話をしてみて、聞いてみて
(2)話し手と聞き手とで互いに正確に発話内容を共有して
(3)それから互いの認識に照らして
(4)認識が一致するかどうかを確かめ
(5)一致すれば客観が成り立つ

…ということであるはずです。

以上の(1)から(5)までのプロセスのうち、(2)で「正確に発話内容を共有」するために、そこにきわめて大事な条件「言わんとすることがちゃんと伝わるかどうか」があるわけです。

その条件を満たすために…

「話し手はおのれの主観を偽りなく相手に伝えること」

…という厳格な約束ごとがあるわけですね。

ここがもし最初から「客観そのものを伝えること」だったとしたら、話し手の、話す姿勢や態度としては立派なものだとして評価できるでしょうけれども、私たちはそもそも、一人一人という個人単位では「客観」などという崇高なるものを持ち合わせていないのですから、「客観そのものを伝えなさい。」などと命じられたとしても、心情的・姿勢的にそう心掛けることは、いくらでも可能でしょうけれども、物理的には無理だというしかありません。物理的な無理をおして発話したとしても、話を「ちゃんと伝える」ことはできません。

つまり、「はじめに客観ありき」では、話がちゃんと伝わらないということにもなってくるのです。

私たちにできるのは、「主観を偽りなく伝えること」だけです。
「偽りなく伝えること」がすなわち「客観」ではありません。
「偽りなく伝えること」とは、自分の見たとおり、感じたとおり、考えたとおり…という、あくまでも、どこまでいっても、これは「主観」そのものなんですね。



また…

形態素は間違って使用してもその間違いを指摘されにくいが、意義素は容易に指摘される

…という事実があります。

(発話例4)
象は鼻が長かった。

これは(発話例3-1)「象は鼻が長い。」を受け止めにしたものですが、発話例4の話し手の主観が、もし実際には「長かった」という受け止めをおこなっていなかったとしても、聞き手には容易には確かめようのないことです。つまり…

形態素というのは、話し手に一任されやすいものであって、真偽が確かめにくいものである

…ということになります。

それに対して、例えば…

(発話例5)
象は糞も長い。

…という発話があったとします。
この発話で、象の糞を知らない聞き手がいたとしますと、「(糞も)長」に関して即座に疑問をもつことができます。「象の糞の長さ」について、ちょっと動物園に行って見てみようとか、インターネットで調べてみようと思うわけです。

ここでの問題は、意義素の真偽にあるわけですね。つまり…

意義素というのは、聞き手と共有しやすいものであって、真偽が確かめやすいものである

…ということになります。
また…

真偽の確かめやすい意義素は、客観が成り立ちやすい。
真偽の確かめにくい形態素は、客観が成り立ちにくい。

…ということも言えますね。

しかし、形態素・意義素のいずれにしましても、「主観」に発していることに変わりはないわけです。

(この項では、話をわかりやすくするために、単純化している部分があります。)

(050507)
17    絶対基準と相対基準

半年ぶりの更新となります。

これまでは、「主観」と「客観」という言葉をつかってお話ししてきましたが、今回は「絶対基準」と「相対基準」という言葉で考えてみたいと思います。

あらかじめ簡単にまとめてしまえば、「主観」が「相対基準」の基点となり、「客観」は「絶対基準」で思考するということなのですが、これについてどなたにもわかりよい説明を試みます。

例えば、私たちが「わかる/わかった」を発話するのはどんな時でしょうか。こんな会話例で考えてみてください。

女(なにごとか説明した後で):うまく言えないんだけどね、大体そんな感じなの。
男:{わかる/わかった}よ。

この会話例での男の人の答えは「わかる」なのか「わかった」なのか、という問題があります。
そして、そのどちらを選んで話すかは、どちらも選びうるというのが正解になります。
いったい、この男の人は、なにを基準に「わかる/わかった」を選んでいるのでしょう。


a 絶対基準

もし男の人が「絶対基準」で選んでいるのだとしたら、およそ以下のような説明になるでしょう。

「わかり」という事象が「非過去」の事象の場合は「わかる」の発話となり、「わかり」という事象が「過去」の事象の場合は「わかった」の発話となる。
発話者が事象を絶対基準に照らして「過去」であるか「非過去」であるか、瞬時に判断し、発話する。

b 相対基準

もし男の人が「相対基準」で選んでいるのだとしたら、以下のような説明になります。

男が「わかり」という事象を請け合う場合(事象よりも主観が主導的な場合)は「わかる」の発話となり、男が「わかり」という事象を受け止める場合(主観よりも事象が主導的な場合)は「わかった」の発話となる。
基準は発話者の主観にあり、主観と、主観に対立する事象との関係において相対的に主観主導であるか事象主導であるかを感じ取り、発話する。


まずなによりも、「わかる/わかった」は、無意識下で選択されるものであるという事実があります。 その無意識下でおこなうのが、「絶対基準」に基づく選択なのか、あるいは「相対基準」に基づく選択なのか、そのいずれが無意識におこない得るものなのかと考えてみれば、後者の「相対基準」によるものの方が容易に選択できそうです。

主観対事象の対立関係において、事象が主導的なら、主観は事象に押され気味になり、主観が主導的なら、主観は事象を押し気味になるという、ただそれだけの、相対的にどうかを感じ取る感覚さえあればよいわけです。

しかしその選択がもし絶対基準によるものだとしたらどうでしょうか。
相手の女の人の話を聞いて理解するという思考が脳内でおこなわれていますから、おこなわれる思考の結果である理解という思考が、はたして過去の理解であるのか、あるいは非過去の理解であるのかを選択するには、またさらに別のところで、判別に必要な思考をおこなわなければなりません。

つまり、「理解」も「過去/非過去の判別」も、ともに思考であると考えられるわけですが、「理解」は意識的な思考で「過去/非過去の判別」は無意識的な思考である、しかも絶対基準に照らした判断であると、同じ思考なのに意識できる次元とできない次元とで二度の思考をおこなっているという話になってしまいます。私たちは本当にそんなことをしているでしょうか? 特に、無意識下で絶対基準などというものに照らした判断をおこない得るのかどうか?

そんな難しそうな二度の思考・判断をしていると見るよりも、思考・判断は思考・判断で「理解」についてのみおこなっていて、「わかる/わかった」の選択は意識のできないところ、すなわち思考ではないところでおこなっている、しかもそれは判断などという大げさなものではなく、至ってさらりと、感じ取れるかどうかも意識できないほどのものだと見る方が無理がないといえないでしょうか。
(051109)
18    客観的描写をおこなった二つの文例

 兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇う鬼の面であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ、愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。それにきまっていた。
(太宰治『愛と美について』の冒頭より)





 兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだ。長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇う鬼の面であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。それにきまっている




 兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。長男は二十九歳。法学士であった。ひとに接したとき、少し尊大ぶった悪癖があったけれども、これは彼自身の弱さを庇った鬼の面であって、まことは弱く、とても優しかった。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だった愚劣だったと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまったのは、いつも、この長兄であった。それにきまっていた


1と2で異なるのは、見ての通り赤字にした部分だけで、1は、請け合い一色の文例、2は、受け止め一色の文例です。

2では、叙述される物事がどれも「一遍限りのこと」であるように感じられるのに対して、1では「まだまだ続く」感があります。
しかしそうした“感じがする”ことから「る/た」の“意味”を特定するのは極めて困難です。

その“意味”を“客観的に特定”するために、“意味”が“客観的な絶対基準”に立つものと“仮定”し、“時制(テンス)”という“普遍的基準”が存在するという“仮説”が従来の文法ではおこなわれてきました。

ところがここにあげた1と2において、“時制”で説明可能な部分はほとんどないというのが、紛れもない事実なのです。
なにしろ、1でも2でも、文法的な誤りだと言い切れる部分はまったくないからです。

まず私たちは、“絶対基準”も“時制”も共に仮定、仮説の域を一歩も出ないという事実を忘れてはならないでしょう。
この事実は極めて重大なことで、さもすでに仮説ではなく唯一の正当な理論であるかのような前提に行われた議論には、すべて疑いの目を持つべきです。
(051202)
19    母語である日本語習得の初期における習得の方法

まずなによりも、「わかる/わかった」は、無意識下で選択されるものであるという事実があります。 その無意識下でおこなうのが、「絶対基準」に基づく選択なのか、あるいは「相対基準」に基づく選択なのか、そのいずれが無意識におこない得るものなのかと考えてみれば、後者の「相対基準」によるものの方が容易に選択できそうです。(以上、「17」より)

「17」では、「無意識下で」どちらが選択されるのかと考えてみましたが、これには別の見方もあります。

私たちの脳は、初めて行うものごとに対処する場合と、何度も対処し慣れてきた上で無意識に対処できる能力を身につけて、その能力によって対処する場合とで、脳の違った部分を使っているそうです。
前者では大脳が、後者では小脳がそれを行うのだということです。
何度も経験してきたことに対しては、いちいち大脳で面倒な処理をせず、小脳が無意識かつ反射的に処理できるようになるのだそうですね。

ではその前提で、17を考えなおしてみたいと思います。

私たちが「わかる/わかった」という使い分けが必要であることを認識するのは、母語である日本語習得の、ごく初期の段階であることは間違いありません。

その最初期において、「わかる/わかった」を間違えずに使うには、当初はきっと大脳なりが、逐一対応していたのでしょう。これを「習得初期」と呼んでみますと、習得初期において「わかる/わかった」の違いをどのように“理解”したのか、ということを解明すれば、「わかる/わかった」の意味の違いがわかることになります。

そこでまた、従来行われてきた「文法」による仮説に登場してもらいましょうか。
その仮説では、次のような話になるはずです。

 習得初期において、時制などの絶対基準を習得した。

さて、この仮説は正しいでしょうか?
母語である日本語を習得して何十年も経った文豪ですら、「18」に見たように、時制とは全然関係なさそうなところで、「する/した」の使い分けを行っている、それが厳然たる事実です。
時制と全然関係ないところでの、“未知の基準”というものがあるとするならば、その“未知の基準”を「絶対基準」とは別のところで習得していなければなりません。
しかし、それについては、従来の文法は「非完了/完了」などというばかりです。そこにもやはり時制同様に「絶対基準」が習得されているのだ、という仮説になっています。
私たちは、二つの「絶対基準」を習得したのか、あるいは、時制ではなく、「非完了/完了」の方だけの「絶対基準」を習得し、その基準によって、時制もカバーしているのでしょうか。

そもそも、まだ母語を習得しきれていない子供が、絶対基準の存在に気付くのでしょうか?
「気付くのだ。」と断言するのは非常に無理があるのではないでしょうか?

本サイトでは、習得初期の子供は絶対基準ではなく、あくまでも相対基準のみで母語を習得していくはずだと考えます。
そしてこれを次のように説明します。

 習得初期において、“請け合い/受け止め”の区別を習得した。

この区別は、“相対基準”です。
この相対基準が習得されさえすれば、あらゆる絶対基準的な表現伝達も可能になるのです。
(051212)
20    “請け合い/受け止め”は、私たちの認識の基本そのものです。


(051212-2)
21    品詞分解

コンピューターの日本語解析は、従来行われている文法の「定説」にもとづいて品詞分解されるようになっているらしい。
本サイトとは、まずここから違う。品詞分解の考え方が異なるのである。

そもそも日本語の仮名表記というものは、子音と母音の分かち書きができない。
子音と母音は分かち書きをする必要がないのかといえば、品詞分解においては必要ともなってくる。

例えば動詞の語幹をどの部分とするかという問題がある。

「うごく」という動詞であれば、「うご」を語幹とする説が古くから定説であるのに対して、「く」の部分を子音と母音に分けて、「うごk」を語幹とする説も出て来ている。

本サイトでは後者をとる。
従って、たとえば「走ります」という文であれば、以下のような品詞分解の異なりが生ずる。

従来の文法の品詞分解
「走ります」 走/り/ます(動詞語幹+動詞活用語尾連用形+助動詞)

本サイトの品詞分解
「走ります」 走r/まs/ウ(動詞語幹*+助動詞語幹+主張相請け合い形)

ローマ字部分は口蓋音、つまりイ列音で、あとにイ以外の母音が続いた場合は非口蓋化する。

「行k」は「いき」と読む。→「行k」+「ウ」は「いく」と読む。
「干s」は「ほし」と読む。→「干s」+「ウ」は「ほす」と読む。
「立t」は「たち」と読む。→「立t」+「ウ」は「たつ」と読む。
「死n」は「しに」と読む。→「死n」+「ウ」は「しぬ」と読む。
「呼b」は「よび」と読む。→「呼b」+「ウ」は「よぶ」と読む。
「飲m」は「のみ」と読む。→「飲m」+「ウ」は「のむ」と読む。
「売r」は「うり」と読む。→「売r」+「ウ」は「うる」と読む。
…など。

*「動詞語幹」とした語は、同時に名詞でもある。
一部誤入力がありましたので訂正致しました。(060126)
(060115)
22    述語は和語が良さそうです。

便宜的にいろんな言葉を作り(使い)すぎるきらいが自分にはあるが、いかにも専門用語みたいなものは使いたくないし、すでに使われている言葉ではしっくりこない。

たとえばこういうことである。


1.「仕切り」

これは、「カテゴリー」「範疇」「概念(の分類枠)」といったところであるが、外国の言語研究とは別のところで日本語研究をやったらいいじゃないかと考えるので、和語で「仕切り」としてみた。
和語であるからしっくりくるということもあるし、学術用語から和語を排除する傾向もどうかと思う。和語はもっと見直されるべきであろう。


2.「こころ」

これについては自分も今まで、「主観」とか「認知中枢」とかいった難しい漢語を使ってきたが、要するに「こころ」である。その動きの観察や説明が難しいほどに自分の奥深くにあって変わらない部分であるというところから、「こころ」という言葉が最もしっくりくるように思う。今後は使っていきたいと考える。
(直接関係はないが、講談社学術文庫に『日本のことばとこころ』(1979 山下秀雄著 )という名著がある。)


3.「うけあい」と「うけとめ」

「する」の語形…うけあい
現在や未来という時間的な座標(客観的意味)を意味する場合もあるが、意味しない場合もある。
こころ対ものごとの対立において、こころが主導的な場合が「うけあい」。
あるいは…こころとものごとが向き合う時にこころが主(ぬし)となる思いが「うけあい」。

「した」の語形…うけとめ
過去や完了という時間や状態(客観的意味)を意味する場合もあるが、意味しない場合もある。
こころ対ものごとの対立において、ものごとが主導的な場合が「うけとめ」。
あるいは…こころとものごとが向き合う時にものごとが主(ぬし)となる思いが「うけとめ」。

これらを「うけあい」「うけとめ」と言うより他に呼びようがないから意味の仕切り(カテゴリー、概念)をそう呼ぶしかなかった。
また、今後はこのひらがな表記を行いたいと考えるところ。


4.助詞の意味

助詞の「が」
これは「ポインティング(pointing)」であると説明してきたが、これも「さししめし」とでもすべきか。

助詞の「は」
これは「フレーミング(framing)」であると説明してきたが、これは「くくり」でよいのかもしれない。

助詞の「も」
これは「排除・限定しない」と説明してきたが、これはどう呼んだものか。
「なかま」とするのもよいかもしれない。

助詞の「に」
これは「意識の到達点」などと説明してきたが、どんな和語が適当だろうか。


主張相うけあい:「する」「だ」「い」
主張相うけとめ:「した」「だった」「かった」
展開相うけあい:「すれば」「なら」「ければ」
展開相うけとめ:「したら」「だったら」「かったら」
委譲相うけあい:「しよう」「だろう」「かろう(いだろう)」
委譲相うけとめ:「した(だ)ろう」「だった(だ)ろう」「かった(だ)ろう」

…というように、基本語形の体系化も考えている。
「主張」も「展開」もしっくりこないが、「委譲」などはもっとわかりにくくなっている。
これらもすべて和語にしないとだめだろうと思う。

(060313)

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