jomon.sumpu.net from Suruga, Japan
心が通じるから日本語が通じる。心を解き明かし、文法などの問題を解明していきます。  

念願の、潮干狩り。


今日は春の大潮。子供たちと潮干狩りに行ってきました。
静岡県で潮干狩りといえば浜名湖なんですが、渋滞にもまれて駐車料金払って渡し船にも払って一人2キロまでと決められて…という潮干狩り経験者製造工場のベルトコンベアに乗っかるようなことは敬遠しました。
行ったのは榛原郡吉田町の海岸で、海水浴場も近く、サーファーの多いところです。たくさんとれるという情報は一切なく、むしろとれるかどうかもわからないといわれる場所です。

行ってみればやはり、潮干狩り客などおりません。
それでも、『史上最強の潮干狩り超人』という素晴らしいサイトで教えられた智慧を実践することにしました。
素足で入るのではなく、靴下をはいて入ります。足の感触と自分の目と手を頼りに、獲物のいそうなポイントを探します。
獲物は、潮干狩りといえば普通アサリですが、ここではハマグリです。
ハマグリの貝殻はすぐに見つかったので、それを足で触って、「ほら、この感触だ。つるつるしてる。」と確認し、波打ち際を探します。虱潰しに、といえるほど徹底してもいない、あくまでも遊びなんですが、それでもなんとか、一つ、二つと見つかりました。

収穫は、大1、中1、小10、以上でした。
曇り空で海水も冷たかったのですが、おかげで日焼けもせず、冷たい水にもすぐに慣れて、宝物探しに没頭した3時間でした。

060429

非検索語の図解


主観自身の認識の対象とならない認識形式が、“非検索語”(頭の中の検索の対象とならない語、活用語尾・助詞など)によって表れると考えられます。

060426

日本語文法 新理論 図解集(要約付き)


主観自身の認識の対象とならない認識形式が、頭の中の検索の対象とならない語(活用語尾・助詞など)によって表れると考えられます。

請け合い/受け止め

 これが認識の基本原理であると考えられます。
 私たちが 主観事象 の“対立”や“主従”を認識しているのは確かであるといえます。

 事象=「わかり」の場合

 主観が“主導的”であれば「−る(−u)」の語形になると説明できます。
 この認識形式と語形を“請け合い”と呼んでいます。

 事象が“主導的”であれば「−た(−だ)」の語形になると説明できます。
 この認識形式と語形を“受け止め”と呼んでいます。

請け合い/受け止めは、「状態動詞」であるとか「動作動詞」であるといったアスペクトを前提とした分類のいかんに関わらずあらゆる動詞、あらゆる形容詞、あらゆる「だ/だった」に共通の認識形式として例外を見つけることができません。

基本語形の表

 請け合い/受け止めを認めることで活用語尾をシンプルに体系化できます。

ファイル化(検索語化)

 “ファイル”とは、検索語(検索対象と意識される「名詞」や「語幹」)のことです。
 それに対して「活用語尾」で終わる発話は“生(なま)の認識”です。
 生の認識は他者と共有される前提にありませんが、ファイルは共有されるべきものです。
 生の認識も、「の」で綴じることで“ファイル化”され、“共有されるべき認識”となります。

ファイルの扱いを決める「助詞」

 手繰りの「を」

 指しの「が」

 限りの「は」、付きの「に」、限らず外さずの「も」など、「助詞」はファイルの扱いを決めていると考えられます。
060425

“共有されるべき認識”、あるいは“他者と共有されてきた認識”


形式名詞「の」の意味、あるいは機能について、あらためてまとめてみたいと思います。

 (1)「それは間違ってる。」
 (2)「それは間違ってるの。」

(1)は“生の認識”です。
それを“検索対象化”したのが(2)です。
「名詞」などは、もともとが“検索対象”の“検索語(ファイル)”です。
しかし「間違ってる」というのは請け合いですから、話者の主観そのままです。

まず…

 検索語=共有されているもの

…という大前提があります。

話者も聞き手も、頭の中にまったく同じ「名詞」をもっています。
「靴」を「靴」と呼ぶのは、お互いにまったく同じ「靴」という“ファイル”をもっていることが前提です。
「kutsu」と言ったり、「靴」と書いたりして、間違いなく通じるのが前提なのです。

しかし(1)の「それは間違ってる。」では、話者と聞き手が同じ認識とは限りません。
それが話者の“生の認識”に過ぎず、“主観”を直接発したに過ぎないからです。

ところが(2)のように、“生の認識”を「の」で綴じて“ファイル化”すると、それは“共有されるべき認識”、あるいは“他者と共有されてきた認識”という“意味”になります。

追記
ご参考までに、従来の「文法研究」がこの件についていかなる「説明」を試み、いかに失敗しているかをご覧いただきたいと思います。
こちらがその「説明」です
これで理解できる人はいないでしょうし、日本語学習者に対しても、間違った日本語を教えることになるだけです。
060422

日本人の慎み


奥ゆかしさとか、慎み深さとかが美徳とされる日本ではありますが、まったくその逆ということも少なくないようです。

殊に最近は、サラ金業界とパチンコ業界の全盛を見るにおよびその逆というものを強く感じます。
両者が果たして日本人によるものなのかという疑問もあるところですが、両者の投じる広告費で潤っている民放テレビや大手広告会社には節操というものをまるで感じませんし、さらに語弊を恐れずいえば日本人の多くがパチンコやサラ金会社を飛躍的に成長させてきた顧客、つまりその張本人だということは事実なのです。

日本人の本来もっていたはずの道徳観念、それが戦後目に見えぬ侵略者によって汚染されてしまったという見方もあるのかもしれませんが、風潮がどう変わろうと美醜の区別がしっかりできるのが日本人であるのだとすれば、責任はやはり堕落した日本人自身にあるということもいえるはずです。

それとも、日本人とは案外こんなものなんでしょうか。大和魂の由来も案外、論語あたりがその本質的なところで、日本人の大部分を占めてきた私ら百姓は元来が意志も弱く、酒や博打などの享楽にふけってしまいがちで、孔子のいう克己復礼などとは無縁の存在だったのかもしれません。

そんなことはなるだけ思いたくありませんが、勝てもしない戦争をして幾百万の死者を出したその根底には、はかないながらも何か重大な可能性を見ていた、それが日本人だったはずです。その可能性が敗戦によってすっかり消えてしまったはずはありませんし、戦死した人たちも、それを消すなと言い遺したはずです。

子供にすすめられないことは大人がやめればよいのでしょうし、子供にすすめたいことを大人がやればよいだけのことでしょう。
親が好き勝手をすれば、子も好き勝手をしますし、親がそれを窘める資格を失いますから親より悪い大人が生まれます。

なんとか、そうならないよう頑張りたいものです。
060421-2

ウェブページデザインについて


ウェブページのHTMLファイルを作る際にこれだけはと思っている自分の心掛けというのがあります。
それは、どんなブラウザであれウェブブラウザのある人なら誰にでも見てもらえるものを作りたいということで、そういうと簡単なんですが、これがなかなか難しいのです。

ブラウザには設定できる項目がたくさんあって、中でも、フォント表示の設定は、それぞれの人が自分に読みやすいよう設定できるようになっています。これは個人の“設定権”とでもいうべきものです。

ところがその“設定権”を意に介さずデザインされたウェブページが、ネット上にはまだまだたくさんあるようです。
どうして意に介さずなのかというと、それは、特定の(多分シェア1位の)ブラウザの出荷時の初期設定(デフォルト設定)だけを基準にして、ほとんどの人はフォント表示の設定などいじらないだろうと、たかをくくって作られているようなのです。

例えば、最小フォントというものが設定できるはずなのですが、狭い面積にたくさん文字を入れようとしたり、文字は小さいほどカッコイイとでも考えたりするデザイナーですと、これでもかと小さな文字を見せてきます。
しかし小さいということは間違いなく目が疲れるわけですから、人によっては最小サイズを12ポイントとして、ブラウザがデザイナーの指示通りの小さい文字を表示しないように設定している人もいるわけです。

そういう人にページを閲覧されることもあるという前提でデザインするべきなのですが、それを怠っていると表示されたときにレイアウトがぐちゃぐちゃに崩れたりします。
ひどいものになると、テーブルタグというものでおこなう基本レイアウト自体が通用せず、いちばん肝心な本文がそっくり欠落するというケースも出てきます。

私の場合は、Mac OS 9 と Mac OS X 、Windows XP などを使って、Mozilla Fire Fox 、Netscape 、Microsoft などのブラウザでチェックしていますが、それでもうっかりミスはなかなかなくなりません。ただ、チェックすべき点はどこなのかということだけはしっかりと心得た上でデザインをしようと心掛けております。
060421

「おぞい」


静岡では、「おぞい」という「方言」が遣われている。
「形容詞」であり、意味としては「ものがわるい」「みばえがわるい」といったところであるが、同じような意味で、北陸や長野でもこの言葉を遣うらしい。

辞書で調べると古語として「おぞし」という言葉は載っている。
意味は「強情」「恐ろしい」「悪賢い」(以上「悍し」)というのと、「にぶい」(「鈍し」)というのとがあって、静岡や北陸、長野などで遣われるものとは異なる。

古語の「おぞし」と意味が通じそうなのは、島根や鳥取で遣われている「おぞい」で、「賢い」とか「恐ろしい」とかいった意味になるらしい。


また、愛知や山梨でも「おぞい」は遣われているそうだ。
以上にあげた分布から察すれば、岐阜や京都などでも遣われるのではないかと思われるが、確認はしていない。

それにしても、現代語の辞書から削除されているこの「おぞい」という形容詞を見ると、標準語というものも、いたって狭い地域の方言にすぎないということがわかる。
060420

普遍的な認識形式について


「普遍文法」というものがあるとする説があります。
それは、どこの言語に関わらず、あらゆる言語は人類が先天的に有する言語能力なくしては習得し得ないという説であるようです。

本サイトの立場からいえば、それは主観と事象の対立を私たちが認識しているという点がまず第一。
そして主観対事象の関係において主観が主導的と認識するか、あるいは事象を主導的と認識するかという一対の認識形式が、おそらくは普遍的な文法原理となっているはずであるという点が文法の「普遍」に該当しそうです。

しかしこれはおそらく、人類に特有の認識形式ではなく、犬などの動物にもあるのではないでしょうか。

強い犬と弱い犬の対立があったとして、優劣を決するなんらかの出来事によって、強い犬は弱い犬に対して主導的な立場を獲得します。同時に弱い犬は強い犬には逆らわない立場に甘んじます。
この優劣を決する出来事において、上記認識形式が存在するはずだと思われるのです。

本サイトで行っている日本語研究では、「普遍文法」を(それがもしあるとすれば)以上のように見なすことになります。

またこの認識形式は、言語のまったく異なり通じない世界に身を置いたときに、私たちが言葉の通じない相手とのコミュニケーションにおいても認識し得るものです。

そのような経験のない人には、まだ言葉を習得していない赤ん坊とのコミュニケーションを振り返ってみていただきたいと思います。
むしろその方がわかりやすく、赤ん坊にも“請け合い”と“受け止め”という認識形式があることがわかるでしょう。(もっとも、生まれたばかりではどうかわかりませんが。)

同じように犬にも、“請け合い”と“受け止め”という認識形式、ないしそれに近いものがあることがおわかりいただけるのではないかと思います。
060416

概念の扱い方を決める“扱い”(助詞)


ここで「助詞」について、少し丁寧に説明を試みたいと思います。

(1)「トマトを…」
(2)「トマトが…」

1.検索語

前のコラムでも述べたように、「トマト」というのは頭の中にあるファイルです。単語カードのように頭にストックされているもので、これが意識的な検索の対象となる“検索語”です。主に、「名詞」や、「動詞」「形容詞」などの「語幹」が“検索語”になります。

2.非検索語

「を」や「が」というのは「助詞」と呼ばれていますが、“検索語”と違って、私たちはこの「助詞」を無意識に選んでいます。
「食べる」の「る」などの「活用語尾」についても同様で、その選択を意識的におこなうことがまずありません。
そもそも「を」「が」「る」などは、実質的なものごとを意味しません。
これを“非検索語”と呼んでみました。
図の中で「を」がおこなうことを指して“手繰り”としてみましたが、これは「トマトを」と言ったとき、「トマト」=“手繰る対象”と認識していると要約してみたものです。

(3)「世界の恵まれない子供たちに愛の手を!」
(4)「神様、どうか私に勇気を!」
(5)「悪法の改正を。」

これらの文での「を」はいずれも「求め」や「必要」というような意味です。

(6)「橋を渡って最初の信号を右折です。」
(7)「私は毎日この山道を歩いてかよってましたよ。」
(8)「早くここを出た方がいいわね。」

これら文での「を」は、客観的に見ると「通過」であったり「分離」であったりを意味するようにも見えますが、対象となるものごとに対する主観の方向性を矢印にして表すと、“自分に面と向かった”ところから“自分の心へ”、そしてさらに“後方へ”という動きの方向性だけは共通しています。
これは(3)から(4)までの「を」とも共通するものなので、“前から後ろへ手繰る”という意味で“手繰り”という言葉に要約してみたところです。
「が」については、「トマトが」といった場合、主観が「トマト」を“指し示す”という意味になります。
私はかつて日本語教室で、“ポインティングの助詞”などといって説明していたこともありますが、「トマトは」というときの「は」が“フレーミング”で、「が」が“ポインティング”と、いつも二つの助詞をセットにして説明しておりました。

これからはなるべく和語で文法体系をまとめたいとの思いから、「ポインティング」は“指し”の一言にまとめてもよいのではないかと思っております。
それに対して「フレーミング」の「は」は、“限り”ということでどうでしょうか。

3.“扱い”

「トマト」:検索語、実質的な意味がある
「を」:非検索語、実質的な意味はない
「が」:非検索語、実質的な意味はない

「トマト」という実質的な意味のある語に、実質的意味のない「を」がくっつくと、「トマトを」となります。

そこで私たちの主観は、意識の対象となる「トマト」についての“扱い方”を決定します。

「トマトを」の場合は…

「トマトを自分に面と向かわせる」
「トマトをこっちに手繰る」
「トマトを自分の前から後ろにやる」

…といった意味になります。
これをまとめて、「を」とは「手繰り」であると要約してみたわけです。

「が」がくっついて「トマトが」となった場合は…

「トマトを主観が指し示す」
「主観がトマトに注目する」

…という意味になります。
これをまとめて、「が」とは「指し」であると要約してみたわけです。

「助詞」は、くっついた検索語の“扱い方”を決定するものと見て間違いはなさそうです。
しかしこの「助詞」という用語、「助ける詞」ということになると、本サイトの立場からは、その機能を正しく言い表してはいないということになってきます。

そこで、本サイトでは今後「助詞」を“扱い”と呼ぶことにしたいと思います。
060415

客観は一人では成り立ちません。


あらゆる発話は、その発話単独では客観性はありません。
複数の主観が同一事象を同様に認識してはじめて客観性が出てきます。
つまり、いくら発話者本人が客観的に正しいことを発話しているつもりでも、それは発話者の主観にすぎないのです。

ある日おじいちゃんは、太郎くんがトマトをつまみ食いしているのを見かけました。
太郎くんはトマトは嫌いだったはずなので、おじいちゃんは太郎くんのお母さんに、

(1)「太郎がトマトを食べていた。」

と言いました。
この発話は、おじいちゃんの主観が認識したことをそのまま発話しただけのものです。
おじいちゃんは「太郎〜いた」と受け止めたことを発話しているのです。
お母さんは、おじいちゃんの発話を嘘だとは思っていませんから、おじいちゃんが発話したその内容を受けて事実なのだろうと認識します。それからさらに、太郎に「トマトを食べられたの?」と聞くなどして、おじいちゃんの話した内容に間違いがないか確認することができます。
そのようにして客観が成立します。

発話は主観の伝達です。
そして、おじいちゃんの発話文を詳細に解析すれば次のようなものになります。

「太郎」 :検索語:孫の名
「が」  :非検索語:指し示しの「助詞」
「トマト」:検索語:食べ物の名
「を」  :非検索語:手繰りの「助詞」
「食べ」 :検索語:「動作」の名
「て」  :非検索語:複数認識の接続
「い」  :検索語:「動作」の名
「た」  :非検索語:基本的な受け止めを表す「活用語尾」

大きく分けて、“検索語”と“非検索語”とがあります。

1.検索語(語の選択を意識できる語)
頭の中にファイルとして入っている(加えた)と認識でき、意識的な検索の対象となる語。

2.非検索語(無意識に選択される語)
頭の中にファイルとして入っていると認識できず、意識的な検索の対象とならない語。
“非検索語”の主なものとして「助詞」や「活用語尾」などがある。

「助詞」には、以下のようなものがあり、いずれも主観が検索語の指す事象(それ)をどう扱うかを表します。
それぞれの詳細な意味についてはまだ議論の待たれるところですが、さしあたり次のように記しておきます。

「は」:限り認識:それ=限る対象
「が」:指し認識:それ=指す対象
「を」:手繰り認識:それ=手繰る対象
「へ」:向き認識:それ=向く対象

このように発話文というものは、どこまで見ていっても、主観がそれをどう認識するか、主観がそれをどう扱うかということばかりです。

相手に発言内容の真偽を疑われて怒った人がよくこんなことを言います。

 「私は客観的事実を述べたまでだ!」

しかしこれも聞き手があってのことですから、聞き手が信じてくれないことには客観性はないということになってしまいます。
060414

“脱宗教”のススメ


「アスペクト」の議論というのはどこまでも複雑化していって、動詞ひとつずつについて全部細かく検証していかなければなりません。動詞を「状態動詞」であるとか「継続動詞」であるとか、いろいろな種類に分類し、たとえ同じ「活用語尾」で発話されていても動詞によって「アスペクト的意味」は異なるのだという「観察」や「分析」をおこなう、それが「アスペクト」を絶対化した議論なのです。

どうしてそこまでして「アスペクト」を肯定しなければならないのでしょうね?
現実には、そんなふうに動詞を分類したことのある一般人はいませんし、そんなふうに客観的な視点で「る/た」を使い分けてなどいなくても子供たちはちゃんと習得して間違わずに使っているのです。意志の疎通が間違いなくできているのが現実で、「アスペクト」など言い出したら意志が通じなくなるのは明らかなのです。

それでもなお「アスペクト」が大事だというのなら、もはやそれは学問でもなんでもなく、単なる宗教だということになってきます。「テンス」を絶対化したがる向きも同じです。

外来のいかなる文法範疇も仮説に過ぎないこと、しかも今後何百年経とうが仮説のまま先へ進みそうにないということ、また、生成文法なども仮説によって始まっていてあくまでも仮説の域を出ないのだということ、私たちが直視すべきなのはそうした現実ではないでしょうか。

それにしてもどうして日本人自らが日本語に関する仮説を立てられないのでしょう。アメリカに禁止されてでもきたんでしょうかね?
060412

“日本語へのアスペクト導入”は無理で乱暴なものだったのです。


もし、「複雑なプロセス軸上の多数の点のいずれかに主観が注目したことを表現するのがアスペクト」だとして、日本語ネイティブの私たちがその「アスペクト」によって語形を選択しているのだとしたら…

まず、意味が通じないのではないでしょうか?
その「注目点」なるものは、発話の相手に正しく伝達されないでしょう。

 犬が…
 歩く:未完了?、未来?、継続?、開始?、反覆?、習慣?など
 歩いた:完了?、過去?、記憶?、発見?、確認?など
 歩いている:完了?、現在?、継続?など
 歩いていた:完了?、過去の継続?、記憶?など

この通り、伝達されるべき「アスペクト」や「テンス」伝来(?)の「意味」は異なる語形にわたり重複しています。
しかし日本語ネイティブである私たちが自分自身の発話を振り返って考えてみれば、仮にこの動詞「歩き」に4通りの語形があるとしたら、4通りの意味を伝達する必要があるから4通りの語形がある(言語社会が4通りの語形を共有している)と考えるのが最も妥当で、当たり前の見方です。決して意味の重複などありえないのです。
つまり…

 語形A=意味A

…なのです。
意味Aは、なにもロシア語(アスペクトという文法範疇の元祖?)に教えてもらう必要はありません。その意味が「ロシア語の完了」に相当するかどうかなんてことは、日本語にとってはどうでもいいことで、日本語の“語形A”には、日本語の“意味A”があるはずだからです。

そもそも日本語を研究するのであれば、まず個々の語について、その語義を説明することが先決であって、個々の語とは、動詞の「活用語尾」などにも及ぶでしょう。そのようにして語義の体系を整理することができれば、日本語が独自に有する日本語の意味体系の中にしっくりと収まった「活用語尾」の意味も説明されうるはずです。

ただ、実質的な意味をもたないとされる「活用語尾」については誰でも明確な説明に窮するところです。しかしだからといって意味の体系がまったく異なるはずの外国語から文法範疇を導入してよいという理由にはなりません。
それはつまり言語が違っても認識の体系は共通するだろうという「夢」に基づく導入だったんでしょうけれども、現実を見れば、たとえば「時制」ひとつとっても、「時制」と呼ぶべき認識の形式をもっていそうに見える言語と、そんなものはもたない言語とがこの地球上には混在しているのです。

そもそも、「アスペクト」がロシア語に関わる問題を例外なくすっきりと解決したという実績があるのかどうかにすら無頓着なまま、日本語も「アスペクト」で説明してしまおうというのは、乱暴というほかないでしょう。

日本語研究で前提とすべきこととはまず、「歩く/歩いた/歩いている/歩いていた」という語形の数があったら、その数だけ意味があって意味は決して重複しないという事実であるはずです。この事実を前提とすれば、「アスペクト」による「意味」の導入は、日本語研究に混乱を招くだけで、現実にその筋の研究は混乱を極めているように思われます。

また、「アスペクト」(並びに「テンス」の)研究がもし今後、無秩序な意味の数々を単純なものに統合・整理し、「活用語尾」の数にしっかり対応して重複のないものを目指そうとしているのであれば、その姿勢だけは大いに評価すべきという話にもなりそうですが、そうなる見通しが立つものならとっくに立っていたはずではないでしょうか?
060412

アスペクト(相)な人たちから予想される反論


アスペクトだって主観の話なのだという反論が予想されます。
だったら、その主観を説明しなければならないわけです。

つまり、もしアスペクトが「出来事の完結度や状態を主観が決める形式」だとするのなら、「る/た」選択においてその主観はなにをどう認識するのか?ということが問題になりますね。

アスペクトな研究者さんたちは、それを極めて複雑で難解な「ルール」によるとおっしゃりたいようです。
「る/た」という一対の、とても単純な二つの語形の択一において、「状態変化」という取ってつけたような複雑なプロセス軸上のどの点であるかを主観的に判断していると言われるわけですね。

その難解を極めた「説明」に対してこのサイトでは、主観対事象という対立があらゆる認識の基本原理になるという主張をしてきています。
その上で、主観が事象に勝るか、事象が主観に勝るかという感じ方の違いによって「る/た」語形が決まるのだという、語形同様に単純を極めた新しい文法理論をご覧いただいているわけです。

どちらが正しいか、論争を待たないところでしょう。
060411-2

Aspect is not the principle(相は原理にならない)


きょうは甚だめんどくさいかもしれませんが、以下の二つの記述に目を通してみたいと思います。でも本当にめんどくさい方は、引用文をとばしてその下の要約からお読みになってけっこうです。
時制(じせい)とは言語学の用語で、述語(主に動詞)によって言及される出来事などが、主に発話時点からみて現在・過去・未来のどれにあたるかといった時間的関係を表現する形式をいう。日本語の動詞では「‐た」によって過去が表示され、現在・未来は終止形(辞書の見出しになっている形)によって表示される。

注目している時点において動作が継続中か、完了しているかなどを表す要素である相と区別される。

「きょうは結婚記念日だった」「あっ、あった」などの例を根拠に、日本語の「‐た」は過去を表すのではなく、日本語には時制はないとする意見がある。歴史的にも日本語の「‐た」は テアリ > タリ > タ と変化して成立したものであり、「あり」という存続の意味が原義である。しかし、段落冒頭のような慣用的例外はあるものの、近代の日本語においては概ね過去/現在の対立で「‐た」と非「‐た」の形が使い分けられており、その意味では時制があると見ることもできる。

相(そう)とは、言語学、文法学上の用語で、動詞の文法カテゴリーの一つであり、動詞が表す出来事の完成度の違いを記述する文法形式のことを言う。アスペクト(aspect)ともいう。出来事を完結したまとまりのあるものと捉えるか、未完結の広がりのあるものと捉えるかによる語形交替などをいい、また出来事が瞬間的なのか、継続的か、断続的か、反覆するのか、やがて終わるのかといった全過程のどの局面にあるのかと面に着目して区別を行うことをもいう。

もともとロシア語などのスラヴ語に見られる完了体と不完了体の対立を表すものであった。なおロシア語の場合、日本語訳に「相」ではなく「体」が使われている。

かつて古典語の文法ではvoice(態)を相と訳しているものが多かったが、現代ではaspectの訳として相をあて、voiceの訳としては態をあてるのが一般的である。

日本語では、
* 雨が降っている・雨が降っていた(未完結相)
* 雨が降る・雨が降った(完結相)
というように、動詞のテ形語幹に「いる」がつけば出来事が未完結であることを表し、「いる」がなく、語幹に直接「る」「た」のみがつく場合は、出来事が完結していることを表現している。ちなみに「る」「た」は時制(テンス)を表している。

また、「雨が降っている」は、出来事が継続していることを表しているが(進行相)、「椅子に座っている」のように、「いる」が瞬間的に変化する動詞につけられた場合、変化の結果が持続していることを表している(結果相)。さらに「雨が降り始めた」(起動相)、「雨が降り止んだ」(終結相)というように補助動詞をつけることでさまざまな局面を表している。

要約
時制とは、発話時点からみて過去・現在・未来という時間的な関係を表現する文法形式。日本語の動詞では「−た」というと過去のことになるが、日本語には時制はないとする意見もある。
相とは、出来事を完結したものと見るか、未完結のものと見るかという、物事の完成度を言う文法形式。

ということで、例をあげますと…

 食べる:非過去、未完了、(未然)
 食べた:過去、完了、(已然)

…となるわけですね。
日本語に時制があるかないかについては、いまだ議論が続いているようですが、完了などの相までもがないとする意見はないようです。 発話者が、どこに注目して発話するか、注目したところを基準点とし、ものごとの完結度がどうかによって「る/た」などの語形が決まってくるとするのが相です。


さて、これらの「文法説明」に目を通しました。
その上で、これら説明が根本的におかしい点について、簡単に指摘したいと思います。

「完成度」「完結」「未完結」「瞬間的」「継続的」「断続的」「反覆」「やがて終わる」「全課程のどの局面にあるのか」
…とこのように、私たちがものごとを客観的に捉えようとしているという前提に立つのが、相などの文法説明です。
客観的であるという点において、相も時制と変わりありません。時制は時間軸上の点を表すため、相は未発生から完結までというような軸上の点を表すための形式だというのですから。

私たちのこの途切れず続く認識が、どうしてそんなに難しいことをおこなっているといえるんでしょうね?
難しいというのは、客観的視点だからです。
そうなんでもかんでも、客観的な視点に立とうと努めてなどいられません。
日本語を話し始めた子供たちのことだって考えなければなりません。
子供たちはとてもとても主観的にものごとを捉えていますよ。
そして大人になった私たちはどうなんでしょう?
ものごとの未完結/完結などという客観的視点を、無意識下でも保持し続けるなんてことが、現実にあり得るでしょうか?
「る/た」は、ほとんど無意識に選択されるものです。
捜し物を見つけて「あった!」と「た」を選ぶのも無意識です。
その無意識のうちに、「捜し物」という出来事の完成度だとか、そんな客観的な捕捉をしている人がいるんでしょうか?
そんなことする人はいません。
これが事実です。

「る/た」を選ぶ基準は、主観と事象のどっちが主導的と認識しているか、それだけで、あらゆる発話例についてすべて完全に説明がつきます。しかも動詞だけでなく、形容詞、「助動詞」などの全部について例外はないのです。
それが「請け合い/受け止め」です。
060411

「の」をつけて認識をファイル化する


私たちの発話には、認識そのままで発話する場合と、認識をファイル化して発話する場合とがあります。

なにを言ってるのかさっぱりわからないと言われそうなので、例文をごらんください。

 (1)「明日東京へ行く。」
 (2)「明日東京へ行くの。」

(1)は、「行き」の請け合い「行く」をそのまま発話しています。
(2)は、「行き」の請け合い「行く」を「の」で綴じてファイル化しています。

「の」という語は、形式名詞などと呼ばれますが、日本語にはこの「の」をつけた発話文と、つけない発話文と、二とおりの発話文があるということができます。

 (3)「私は行く。そして戦う。」
 (4)「私は行くの。そして戦うの。」

(3)では「行き」や「戦い」を請け合った認識そのままを発話しています。認識の生(なま)を発話しているということになります。

(4)では認識のままでなく、ファイル化しています。「行き」や「戦い」を請け合うという認識をひとまとめに綴じてファイル化したものを発話しているということになります。
▽生の認識をそのまま発話する場合
事象=「行き」→(請け合い)→「行く」

▼ファイル化して発話する場合
事象=「行き」→(請け合い)→「行く」→(ファイル化)→「行くの」

「の」で綴じたファイルは、そのファイルをさらに請け合ったり受け止めたりすることもできます。

 (5)「ここで食べてはいけないのだ。」

この場合、「ここで食べてはいけない」という生の認識を「の」で綴じてファイル化することによって、それが「生の認識」ではなく「すでにファイル化されたもの」であるという意味へと変換されています。

その「すでにファイル化されたもの」に「だ」がついて、ファイルを請け合っているのが(5)の発話なのです。

「ファイル化」について、もう少し詳しく見ていきましょう。

例えばこんな発話があります。

 (6)「あれは山。これは川。」

発話者の頭の中には、「山」というファイル、「川」というファイルがあります。ファイルとはつまり“単語カード”のようなものですね。
「あれ」を認め、該当する単語カードを頭の中で検索します。
(6)は、単なる検索を検索のまま「山。」、「川。」と発話しているわけです。そこには請け合いもなければ受け止めもありません。

 (7)「あれは山だ。これは川だ。」

(7)では、ファイルの検索にとどまらず、「だ」によって請け合い(主観の最も基本的な認識形式のひとつ)を加えています。

 山(検索)+だ(請け合い)

ここへさらに「の」を加えると、「山だ」という請け合い全体がファイル化され“検索対象化”することができます。

(8)「あれは山なの。これは川なの。」

「山だ」の「だ」が「な」に変わっていますが、「な」はいわゆる「連体形」というやつで「だ」と同じ意味ですね。
「山」というファイルに「だ」という請け合いがつき、さらにその全体を「の」でファイル化した発話、それが(8)の発話です。
そこへさらに「だ」で請け合ったり、「だった」で受け止めたりすることもできます。

 山なの(検索)+だ(請け合い)

このように、「山だ」という請け合い全体を“検索対象化”(ファイル化)することによって、請け合いが“生(なま)の認識”ではなくなります。本来が誰かの主観による生の認識にすぎなかったことが、ファイル化されることよって意味を変えるんですね。

どんな意味に変わるかということについては、“ファイル化”という、私たちの認識のしかたがキーワードになってきます。
たとえば「共有可能」という意味にもなるでしょう。
「山」であれ「川」であれ、ファイル(単語カード)というものは、相手としっかり共有されていてはじめて使用できるものだからです。外国語の人とではこれが共有されていませんから言葉が通じませんが、日本語と日本語であれば、お互いに同じファイルを頭の中にもっていることが大前提です。

ですから、「本来が誰かの主観による生の認識」であっても、それを「の」でファイル化することによって、その認識が共有されるべき認識ですよという意味合いを加えることができるのです。

 (5)「ここで食べてはいけないのだ。」

…という発話には、「ここで食べてはいけない」という生の認識ではなく、誰もが共有可能な認識、それはつまり“決まりごと”という意味にもなってきます。

また、言うまでもないことですが、「の」は話し言葉ではしばしば「ん」になります。

 (9)なんだ、彼も知ってたんだ。わざわざ知らせることなかったんだね。

静岡の方言では、その「ん」さえもが省略されます。

 (10)おかしいと思ったら、太郎が食べただな?

「食べたんだな」の「ん」が省略されて「食べただな」になっていますが、認識が“生”なら「食べたな」という形で東京方言と同じです。静岡では「だ」がひとつ加わることで認識をファイル化するわけです。
060407

切れる声=清音/切れない声=濁音


中国人学習者の苦労することの中に、清濁音の聞き分けというやつがあります。
日本語を母語とする私たちには何でもないことなんですが、発音の体系が根本的といってよいほどに異なる中国語の人たちには、たとえば「た」が「た」なのか、それとも「だ」なのか、聞き分けられないということがあるんです。

例を挙げますと…

 中国語:「机(ji)」「七(qi)」

この「ji」と「qi」は、日本人の耳にはどちらも「ち」と聞こえます。ローマ字表記が「ji」であっても、中国語で正しく発音されると濁っては聞こえないからです。

次の例です。

 日本語:「九時(く)」「価値(か)」

この「じ」と「ち」は、中国人の耳にどちらも「じ(ji)」と聞こえたりします。
日本人がこの事実を知ると、ええ?なんで?全然違うのに!「じ」は明らかに濁ってるし、「ち」は濁ってないじゃないか。…ということになるんですが、中国人がその違いを習得するにはかなりの時間がかかったり、あるいは日本語を使えるようになって何年経ってもちっとも聞き分けられなかったりするんですね。

それは簡単に説明するとこういうことです。

 清音:声帯から発する声を切って出す子音
 濁音:声帯から発する声をともなって出る子音



声の出方を図で示すとこのようになります。
「じ」のところでは切れませんが、「ち」のところでは切れます。
これをスローモーションで発音するとしたら、次のようになっています。

 清音:声を出さずに子音を発してから声を出す
 濁音:先に声を出しておいてから子音を発する

これが清音と濁音の違いです。「か」と「が」、「た」と「だ」、「ぱ」と「ば」なども同様です。(「ぱ」は半濁音と呼ばれますが、上の分類では清音と同じ発音のしかたになります。)

さてこの清濁の違い、中国人がどうしてわからないかといえば、「ji」も「qi」も共に“声を切って出す子音”だからです。そして中国語には、「じ」という濁音、つまり“声を出しておいて発する子音”が、原則としてないからです。

日本人は上に見たような清濁で区別しますが、中国人が区別するのは「有気音」と「無気音」というもので、息を出すか出さないかの区別です。

 有気音「qi」:息を出す「ち」
 無気音「ji」:息を出さない「ち」

こうした日本語と中国語の根本的な違いを正しく学ぶことなく、安易に「ち」=中国語の「qi」、「じ」=中国語の「ji」などとおぼえてしまうと、いつまで経っても聞き分けられなくなってしまいます。

また、中国語を学ぶ日本人も同じことで、中国語の「qi」=「ち」、中国語の「ji」=「じ」などとおぼえてしまうと、いつまで経っても有気音と無気音の違いがわかりません。

それで日本人が「かち(価値)」とか「まち(町)」とか言うときの「ち」は、中国人の耳には「息を出していない」と聞こえるものですから、「じ」と言ってるように聞こえたりするわけですね。
060404

すること、やること


「する」という語に対して「やる」という語があります。
基本的に語義はほとんど同じですから、どう違うのかという疑問を外国人の日本語学習者なら当然もつわけですが、これを変なたとえで教えてしまって学習者がおかしな理解をしていることがあります。

「私はなるべく『する』を使うようにして『やる』は使わないようにしてるわ。」

なんていう、ちょっと上品ぶった発言をある日本語教員から聞いたことがありましたが、ちょっとそれは違うだろうと思って、考えを改めてもらったことがあります。

×「する」:上品
×「やる」:下品

…と、こんなふうに教えられた学習者は悲惨です。

以後めったに「やる」は使えなくなるからですね。しかし実際は、どんなに上品な女性でも「やる」を使わずには生きられません。それが日本語であり、「やる」は決して「下品なことば」でもなんでもないからです。

ではどう違うのか?
簡単にまとめると次のようになります。

 「する」は、ふつうのこと。
 「やる」は、特別のこと。

例文を見ましょう。

 「宿題でもするか?」

この「宿題をする」は、「宿題」が決して特別なことではなく、して当然であるとか、いたって普通のことだという意味合いになります。

 「宿題でもやるか?」

この「宿題をやる」は、「宿題」が当然のことでも普通のことでもなく、普通に過ごす時間の流れの中にあってちょっと特別な時間を作っておこなうことであるという意味合いになります。

 「やったー!」

何かに成功して喜ぶときに使う言葉で、「ヤッターマン」なんていうアニメもありましたね。
これを、

 「したー!」

…と言ったのでは、「成功した」とか「困難を乗り越えた」という意味にはとうていなりません。特別のことをしたんですから、ここはどうしても「やった!」と言わなければならないのです。

 何かをやり遂げる

…という言葉も、「し遂げる」では気が抜けてしまいます。「成し遂げる」といえば力がこもっていますが、同じように「やり遂げる」といってこその言葉です。
060403

請け合い(うけあい)/受け止め(うけとめ)


請け合い(うけあい)

「する/した」、「見る/見た」、「高い/高かった」、「暇だ/暇だった」などの一対となる語形のうち前者の語形。またその語形(語尾)に表れる主観の心。“主観対事象”という対立において主観が事象に対して主導的(主役的)であれば請け合いの意味を有する請け合いの語形になる。

受け止め(うけとめ)

「する/した」、「見る/見た」、「高い/高かった」、「暇だ/暇だった」などの一対となる語形のうち後者の語形。またその語形(語尾)に表れる主観の心。“主観対事象”という対立において事象が主観に対して主導的(主役的)であれば受け止めの意味を有する受け止めの語形になる。

“請け合い/受け止め”は、私たちの認識の基本そのものです


客観的描写をおこなった二通りの文例


 兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇う鬼の面であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ、愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。それにきまっていた。
(太宰治『愛と美について』の冒頭より)

1(請け合いのみの文)
 兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだ。長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇う鬼の面であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。それにきまっている

2(受け止めのみの文)
 兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。長男は二十九歳。法学士であった。ひとに接したとき、少し尊大ぶった悪癖があったけれども、これは彼自身の弱さを庇った鬼の面であって、まことは弱く、とても優しかった。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だった愚劣だったと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまったのは、いつも、この長兄であった。それにきまっていた


1と2で異なるのは赤字にした部分だけで、1は、請け合い一色の文例、2は、受け止め一色の文例としてみました。

「する/した」の語形を選ぶ基準がもし、客観的な基準(絶対基準)であるのなら、このように「する/した」のどちらを使っても意味が通り、なおかつ文法的間違いが見当たらないということがあるんでしょうか?
上の1と2は、ともに意味が通り、どちらでも文法的に間違いだとは言えないのです。

この事実に対して、「昨日雨が降ります。」とか「明日雨が降りました。」とは言わないのだから、「降る/降った」は“時間”という絶対基準に関わっていると見て良い、という反論が出てきます。

確かにその発話例では、「昨日」なら「降りました」と言うべきであり、「明日」なら「降ります」と言うべきで、その逆はおかしな感じになります。

しかしそれも、「昨日」の事象を正しく伝えるのなら、主観が事象を受け止めているという発話をし、また「明日」の予測を述べるのなら主観が事象を請け合っているという発話をする、という説明だけで十分でしょう。

請け合うことで、事象の不確定性、未完了性、非過去性などを伝えることが可能となり、受け止めることで、事象の確定性、完了性、過去性などを伝えることが可能となるのであって、あくまでも“請け合い/受け止め”という“原理”によって語形は決定されるのです。

私たちは日本語習得の初期段階でこの“原理”を習得し、それを正しく使用することで「非過去/過去」であるとか「未完了/完了」であるとか、あるいは「未然/已然」であるといった“客観表現”をおこなう技術(日本語の運用能力)も次第に身につけていきます。

また“請け合い/受け止め”は、『基本語形の表』にまとめたものを見ていただけるとわかるように、日本語の基本語形をきわめて単純明快な体系として示すことも可能にします。
(最後の三段落を加筆修正しました。060402) 基本語形の表
060401

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昨日は夏日
今日はまた少し寒くなりましたが、昨日は27度ぐらいまで上がったそうで、今年最初の夏日となりました。2月半ばの24.6度以来の“暑さ”でしたが、体感的には2月のあの日の方が暑く感じました。
このところ、『日本語文法 新理論』の専門サイトと化しておりますが、今までうまく伝えられなかった“事実”が、次第に適切な言葉になってきているように思っております。目標はノーベル賞ということでがんばってまいりますが…、会社を辞めたくなってきました。
060425
手繰りの「を」
4月14日の原稿を一部修正し、図を加えました。「助詞」の「を」を「引き寄せ」としていましたが、これを「手繰り」に換えました。また、“検索語”と“非検索語”のモデルを図でご覧いただけるようにしました。
060414
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これからのサイト運営について思うことですが、自分の経験や、おそらく自分だけの知恵や知識というものを、とにかくアップしてしまうということが必要だろうと思います。整理し編集することも必要ですし、皆さんから面白いと思われることも必要ですが、優先順位としては、まず何でも書く。そういうところで進めたいと思っております。
060407
掃除が行き届いた部屋…
要らないものを大量に捨てたら部屋がとても広く快適になりました。話し声も反響するような感じです。
こうなると、ここに帰ってくるのも楽しみになります。とはいっても、今までと比べて相対的にきれいになったというだけで、本当にきれい好きな人から見られたら、まだまだ汚いじゃないかと言われるのかもしれません。いや実は、要らないものはまだまだたくさんあるんですよねぇ。部屋を一度すっからかんの状態、いわゆるデフォルト状態に戻してみたい気もします。
060404
富士山は噴火しませんでしたが大掃除しました
きのう、おとといと、大掃除をしました。年末が長女のヘビーな宿題でつぶれたので、やっとこれで部屋が普通に近づきました。
出たゴミが9袋ぐらい! 片付けてみるといつも半分以上がゴミ、そのゴミの中で長いこと暮らしていたことを知らされます。
映画やドラマに出てくるような洒落た部屋、あるいは普通にちゃんと掃除しておられるきれい好きな皆さんの部屋というのは、きっと不要品の片づけが迅速なんでしょうね。うちはほったらかしで、ゴミをゴミと気付かぬままに生きているようです。でもこれで大した病気にもならないんですから、免疫がついていいのかもしれませんが…。
060403
富士山がついに噴火しましたねぇ。
きょう午前10時40分ごろだったと思いますが、晴れていた空がなにやらおかしな様子だったので、テレビをつけると富士山噴火のニュース。それからずっと、いま夜ですが、テレビをつけっぱなしでした。とうとう来たかって感じです。大地震も近いことでしょう。まあ、逆らえるもんじゃないですから、明日は家具の固定などを点検しておくことにします。スーパーは、この噴火で慌てて備蓄を買う人で溢れていて、食料品がすでに品不足だそうです。うちは温室の屋根もふくめて大したことないみたいですが、火山灰で被害にあわれた皆さんにお見舞い申し上げます。
060401
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