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心が通じるから日本語が通じる。心を解き明かし、文法などの問題を解明していきます。  

語幹=基本形=名詞形


 「時計が動く。」

というときの「動く」という動詞は、この「動く」の形が動詞の“基本形(辞書形)”とされています。

しかし「動く」という語形で発話すると、純粋に動作を表す部分だけではなく、「く」ないし「う」という、話し手の主観の表れた部分が加わってしまいますから、「動く」はニュートラルな意味とはなりえず、基本形を「動く」と見るのは問題があるんですね。

では“話し手の主観”の部分を取り払った“純粋に動作だけを意味する部分”はどこかということになりますが、「動く」から「く」ないし「う」を取り除いた部分とすればよいわけです。

学校文法などではそれを「語幹」と呼んで、動詞の活用語尾をはずした部分としていますが、それによると、「動く」は五段活用をする動詞なので、「うご」が語幹だということになっています。

 語幹:うご
 活用語尾: かない きます く く時 け けば こう

これに異を唱えた学説もあって、それによると、これら語尾には共通して頭に「k」という子音がついていますから、「うごk」が語幹だといいます。

「語幹」とは「活用語尾を取り除いた変化しない部分」のことですから、確かに「k」までが変化しないということで「うごk」が語幹だと見て間違いありません。
(「うごいた」の語形もありますが、「うごきた」の「き」が変化して「い」になったものと見ます。)

しかし私はそこから先が大事だと思います。

というのは、「うごk」という語幹をあえて発音すれば「うごく」となり、またそこに“話し手の主観”が加わってしまうんですね。それでは“語幹”が“純粋に動作を表す部分”としての意味になりません。

では「うごk」から“話し手の主観”を完全に取り払うにはどうしたらいいかといいますと、「k」を“口蓋化音(こうがいかおん)”と見ればよいのです。

“口蓋化音”というのは、「き・し・ち・に・ひ・み・り」というイ列の子音のことです。
これら子音を発音するには、口の中の硬口蓋(こうこうがい=上の硬い面)に舌の中央部分を盛り上げて近づけます。
そうすることで「き・し・ち・に・ひ・み・り」を発音することができるんです。「きゃきゅきょ」「しゃしゅしょ」「じゃじゅじょ」「ちゃちゅちょ」などの「拗音」の子音も“口蓋化音”です。

たとえば「き」を発音するとき、「か、く、け、こ」と同じ“口蓋化音”ではない子音で「い」の母音を発音するとどうなるかといいますと、「くぃ」という音になります。“口蓋化音”の子音に「い」をつけることではじめてちゃんと「き」の発音ができるんですね。

さてそれで、「うごk」の「k」を“口蓋化音”だと見れば、それをあえて発音した場合「うごき」になります。

 (1)「うごk」は「うごき」と読む

まずこれを据えてみて、「うごかぬ」「うごく」「うごけば」「うごこう」など、“「i」以外の母音”をつけるときには「k」が“非口蓋化音”になると見ればよいのです。
このように見ることで、「語幹」とはつまり「純粋に動作を表す部分」となり、同時に「動詞の基本形」でもあるとともに「動詞の名詞形」でもあるということになって、なにもかもが単純ですっきりとしてきます。

▽「k」:口蓋化音
 うごき(うごk):語幹;動作のみを表す部分;基本形;名詞形

▽「k」:非口蓋化音
 うごかぬ(うごk + aぬ)
 うごく (うごk + u )
 うごけば(うごk + eば)
 うごこう(うごk + oう)

そもそも五段活用ではない動詞、つまり、「見る」「食べる」「借りる」などの、一段活用をする動詞では、子音を口蓋化音と見るかどうかなんてことは考える必要がなく、それぞれ「見」「食べ」「借り」であって、それが「語幹」であり「純粋に動作を表す部分」であり、また「基本形」であり「名詞形」であるわけです。

つまり、五段活用の動詞を上のように見ることで、一段活用の動詞と五段活用の動詞とで互いに異なる「二重のルールを決める」必要なんてなくなるんですね。

▼学校文法
  • 基本形=「うごく」とすれば話者の主観を表す部分が加わってしまう。
  • 五段活用の語幹には意味がない。
    例:「うごく」の「うご」、「読む」の「よ」、「走る」の「はし」など。
  • 一段活用の語幹には意味がある。
    例:「見る」の「み」、「食べる」の「たべ」、「借りる」の「かり」など。
  • 五段か一段かで語幹の意味・機能が異なってしまう。

▽興津文法
  • 「うごk」は「うごき」と発音。これを基本形とすれば純粋に動作だけを表す。
  • 五段活用も一段活用も共通して語幹に意味がある。
060331

文でも語でも同じこと


「ふうん、そうなんだ。」
「へえ、すごいね。」
「君、ほんとに偉いよ。」
「いやあ、感動したなあ。」
「ごもっともでございます。」
「おっしゃる通りにいたします。」
「なんなりとお申し付けくださいませ。」
「私をもっといじめて。好きなようにして。」

最後のはまあともかくとしても、上の発話例は、みなそれぞれ、ばらばらなものです。
いろんな発話例を集めて並べてみたわけですが、ざっと見てみると、共通点が一つあると思います。
というのは、どれも自分から相手への“押し”がなくて、ただ謙虚に相手の言うことなどを受け止めているということですね。

私がこれまで主張してきた文法にも“受け止め”というのがあります。

 「つく/ついた」の… 「つく」=請け合い 「ついた」=受け止め

…というものですが、これは主観対事象の力関係において、一対となる方向性を指してそう呼んだものです。

 主観が主導的なら“請け合い”で「つく」になる
 事象が主導的なら“受け止め”で「ついた」になる

因みに、このどっちにもならないのは、「つき」です。
どっちにもならないというのは、頭の中にある単語カードを1枚検索して、ぽいっと出しただけということです。

 主観が主導的なら“請け合い”で「山だ」
 事象が主導的なら“受け止め”で「山だった」
 どっちにもならないのは、「山」

…というように、名詞で見るとわかるように、「つき」というのも基本的に名詞、というか、活用語尾を排した語幹(変化しない部分)なんですね。

(語幹は「つ」だというのが学校文法です。しかし「つ」では意味がわかりませんから、変化しない部分は「つk」だと見て、「k」をあえて発音すれば「き」だと見ると「つき」になる、というわけです。)

このように、「つく/つき/ついた」という3つの形があって、これが「請け合い/どっちでもない/受け止め」です。

請け合い/受け止めは、動詞・形容詞・名詞など、どの品詞でもまったく例外なくそういう意味であるというのが、我が文法理論の基本の部分で、とても単純な原理です。

しかし冒頭に並べた発話例というのは、単語に分解したものではなく“発話”ですから、発話文全体として見たときに、「ただ謙虚に相手の言うことなどを受け止めている」という色合いを理解できるわけです。

どんな発話でも一語で見たときと同じように、「請け合う色合いの発話」「受け止める色合いの発話」「どっちでもない発話」という三分類ができるのではないでしょうか。

これはとても単純なことなんですが、“文法”というものもこのように“とても単純”なものであるはずです。
発話が単純に分類できて、単語レベルになると語形を単純に分類できないというのは、実におかしな話ですから。
060330

自分と対象と


主観が事象(認識の対象)に向き合ってあらゆる“認識”がおこなわれる。
こんな当たり前のことを何度にも分けてくどくど言ってもしょうがないじゃないかと思われるかもしれませんので、話をちょっと先へ進めてみます。
主観→事象
主観←事象
認識の基本には、このように“どっちが主導的か?”という区別がおこなわれています。主観が主導的であったり、事象が主導的であったりします。
A「うちのお父さん、すごいよ。」
B「うちのお父さんはもっとすごいよ。」
A「だってうちのお父さん、すごいんだよ、ほんとにすごいよ。」
B「うちのお父さんなんか、もっともっともっとすごいよ。」
誰でも記憶にあるたぐいの小さな子供の会話ですが、この二人はお互いに自分のお父さんの方がすごいといって譲りません。
一方が「うちの方がすごい」と言えば、言われた方は押されますから、それを押し返すために「うちの方がもっとすごい」と言い返します。こうしてお互い押し合って、どっちが最後まで押し切るかを競っているわけですね。

こういうのが私たちの認識の基本中の基本ではないのか?ということを私は指摘したいわけです。
この基本が誰にでもおこなわれていて、誰もが共通の認識のしかたというものがこうしてあるわけです。共通しているものだからこそ、押されたら押し返すという行為をぶつけ合うこともできるわけです。
A「あなたきれいよ。」
B「そんなことないわよ。あなたの方がずっときれいだわ。」
A「私なんか全然よ。あなたはほんとにきれい。」
B「あなただってきれいよ。私よりはずっときれいだわ。」
これはお互いに謙遜しているんでしょうけれども、これだって先の子供の会話とまったく同じで、お互いにお互いを褒め合い、自分の判断や判断の基準が妥当であるとして主張を譲るまいと押し合っていると見ることもできるわけです。

押したり押されたり…。私たちは常にそうし続け、それを認識の基本としていると考えることは、どこにも無理がありません。
それに比べますと、「常に絶対基準に照らして判断している」などと難しく考えるのはかなり無理があるというほかないでしょう。
060328

認識の主体を“主観”とする


この「認識の主体」というような言葉を使うとなにやらやたらと難しいことを言ってるような雰囲気になります。それがいやで簡単な言葉をと思うものだから、それがかえって混乱を招いたりもする。それじゃあどうしようかというところを保留したような形で話を進めるものだから、なかなか簡単明快にまとまらない。どうも悪い循環がそこにあるようです。

もういい加減にここらで用語(述語)の統一をきっちりしていかなければなりません。
で、やはりいろいろ考えると、「認識の主体」については“主観”を用いるのが妥当だろうと思うので、“主観”の語義のうち、“認識の主体”という意味での“主観”であるという断り書きをしてかかることになります。
060326

主観と、主観以外


主観と事象が一対というのは、主観は事象を認識するけれども主観は主観自身を認識しないという前提に立ちます。

主観と事象の間には、認識する主体としての主観と、認識の対象となる客体としての事象という、はっきりした境界線を引くことができます。

そういう意味なので、例えば以下のような「主観」とは意味が異なります。
「彼女を怪しいと思うのは君の主観にすぎない。」
本サイトで「事象に対する主観」というときの「主観」とは、“認識の主体”のことだということです。
そしてこの主観が、主観それ自体を認識せず、認識の対象となるもの一切は事象であるという考え方です。

認識の対象には、ありとあらゆる事象がありますが、その中でも注意したいのは次のような事象です。
「深い意味なんてないさ。何となくそう思っただけだよ。」
この中の「何となくそう思った」というのも、自分の思考や感覚の存在や活動、あるいは現象を、主観が認識の対象としているわけですから、対象となったものの一切は主観ではなくて事象だということです。

「思った」というのは主観だろう?と思われるかもしれませんが、自分がそう「思った」という事象です。事象であるから認識の対象となっているわけです。

そう考えると、「主観」というこの用語の使い方は混乱を招きやすく、あくまでも「認識の主体」というべきではないかとも思えます。どうもそのあたりが、まだ整理のついていない部分なのかもしれません。「おのれ」とでもした方がいいんでしょうかね…。
060324

“主観”と“事象”で“一対”


言葉を発する私たちがどうしてそういう言葉を発したかというその原因は、「そういう心だったから。」とか「そういう思いだったから。」、あるいは「そういう感じだったから。」ということになるわけですが、「心」とか「思い」、あるいは「感じ」などという概念は、『大辞林』などの辞書に教えを請うても“これだ”という特定はされていないようです。

でもまあ、その“実体”の特定はできなくとも、それを“主観”であるとすることに間違いはないはずです。ですから…

 主観が言葉を決定する。

…ということで一応、間違いだとはいえません。

主観は主観だけで存在しているわけではなくて、主観と一対になって存在しているものがあるんですが、それは“事象”であるということもいえるでしょう。

 “主観”と“事象”で“一対”である。

…と、ここから始まるのが本サイトであるわけですが、これを「漠然としすぎている」と見るか、「当たり前すぎる」と見るか、第一印象はきっと人それぞれでしょう。

しかし、この“対”を見据えたところから、いろいろなことがわかってきます。
逆にいえば、この“対”を“対”と気付かぬところには、“秩序”は見つからないでしょうね。
060322

テキスト情報からふくらむ想像


得体の知れないスパムメールに、差出人名「長瀬愛」というのがたまに来ます。
どうせ出会いサイトか何かでしょうけど、「長瀬愛」という名の表すものが何なのか、ちょっと考えてみると面白そうです。

まず、芸能人みたいな名前なんでしょうかね?
民放などのバラエティー番組を見ないため、最近の芸能人というのをほとんど知らななくて何ともいえませんが、芸能人だったら割と覚えやすい名前だろうと思います。

「愛」という名は、古いところでは梶原一騎の『愛と誠』というのがありました。ヒロインの早乙女愛は日本一の美少女だろうというくらいの美貌で、意志が強く、学校の成績も最優秀というスーパーヒロインでした。作者としては、早乙女愛に惚れない男はいないというような設定だったんでしょう。
そういう完璧な女性に与えられた名だということで、「愛」という名はマイナスイメージというのがあまり出てこない名なのかもしれません。

「ながせ・あい」という音を見ますと、名字が“3拍3音節”で名が“2拍1音節”。「たららたん」という拍の構成でリズム感があります。名字が相対的に長く、名が短くなっていて、「あい」という音のかわいらしさが一層引き立ちます。「早乙女愛」はさらに名字が長いバランスですが、これが逆に2拍の短い名字で「佐野愛」とか「森愛」ですと相対的に「あい」が重くなります。

漢字を見ますと、「長く愛する」みたいな印象もなきにしもあらずで、「瀬」という字には色気も感じられそうです。筒井康隆の小説には“七瀬三部作”というのがあって、ヒロインの名が「七瀬」でした。

こう見てくると「長瀬愛」という名は、男の心をくすぐる力をもっているともいえるのかもしれません。
「美人で可愛らしく、決して馬鹿でないが、男を一途に大事にしてくれる女性」
多くの男性がそう連想することも十分にある名前なのかもしれません。

「おれは違うね。愛って名のとんでもない女を知ってるから、彼女を想像しちゃって駄目!」
という人もいるかもしれませんが、そういうのはきっと例外でしょうから、助平心を起こしやすい男性を騙すにはなかなか良い名前だということになるんでしょうね。

一方で、差出人名「阿部」というのも来ます。
これにはなにも感じませんが、これは芸能人絡みなんでしょうか。「ばびぶべぼ」の入った名前はあまり可愛くないというか色気がないというか、どうもそういう印象があるように思えます。

もちろん、名前通りの人ばかりではないどころか、むしろ名前通りの人の方が少ないくらいでしょうから、いくら名は体を表すといっても、名前だけで人物を判断する人もいないでしょう。

テキストだけで伝えられる情報というものは、それだけで最大限の理解をしなければなりませんから、テキストに表れない部分というのは想像の範囲外で、存在しないも同然ということになります。
良いことだけが書かれていれば良いことしか想像できず、悪いことしか書かれていなければ悪いことしか想像できません。
重病で死にそうな人とは知らず「元気だよ!」とメールを送ってこられたらそれを信じるしかありませんが、病床を見舞ったときに「こんな様子だけど実は元気なんだ」と言われても容易に信じることはできません。

それと同じようなことで、全然自分の好みでないタイプの女性から「長瀬愛です。」と名乗られる場合や、人気のありそうな可愛い人から「阿部です。」と名乗られる場合には、名前など大した意味を持ちません。

テキストだけで想像を膨らますのも楽しいことですが、重大な危険もありうるわけですね。
060320

書くべきことと書けぬこと


日本語の理論、すらすらと行きたいところなんですが、なかなか思うようにいきません。
すらすらと書けないのは、まだ述語の統一がなかなかできない段階で、自分の頭の中でほぼ完成している理論体系もまだ全部は言語化したことがないということ。
まずはそれが先決なんですが、まあこのサイトというのも、それを初めてやろうとしているということで、それを一通りやりきった後でやっと“熟成”が始まってくるということなんだろうと思ってます。

情報というものは「intelligence」というように、体系としてまとまってこないと大して役に立たないものだったりします。
勘違いの上に体系を作ろうとしても煩雑になって破綻するものですが、正しいインスピレーションの上なら単純で美しいものが見えてくるはずです。

暑さ寒さも彼岸まで。いよいよ本当に春らしくなってきて寒さから解放されてきます。
冬眠していたような脳味噌がもっと動き出してくれるといいんですが。
060318

定義にも心


 「きょうはよく晴れましたねえ。」
 「あら、どうなさったんですか? その包帯!」
 「いやあ、どうも、みっともなくて。」
 「お怪我?」
 「ええ、サッカーで、ちょっと。」
 「まあ、それは大変でしたわねえ。」
 「年甲斐もないって、女房にも叱られたんです。」
 「お若い証拠ですわ。」
 「いやあ、どうも。」

どこにでもある日本語の、ごく普通の会話です。
このように言葉を交わすことで私たちは、言葉に込められた“意味”を伝え合っています。

その“意味”ですが、発した言葉の“意味”は一通りとは限らず、“定義”と“こころ”というべき二つの側面をもつことが多いようです。
まずそのうちの“定義”とは、“客観性を追求したところの意味”であるといえるでしょう。 たとえば、

 「きょうはよく晴れましたねえ。」

という言葉なら、

 「きょう、晴れ。」

だけで“定義”としての“意味”は通じます。
しかしこれでは普通の会話にはなりませんから、せめて「きょうはよく晴れた。」ぐらいは言わないとならない。そこにさらにたっぷり“こころ”を盛り込んで、「きょうはよく晴れましたねえ。」と言うわけです。そういってこそ、普通の“会話らしい会話”となるからですね。

“こころ”とは、主観的であり、説明のしにくいものですが、日常会話では“定義”よりもむしろ大事なものです。
たとえば、上の会話が騒音の中だったとして、最初の一言がよく聞き取れなかったとしてみましょうか。

 「××は××××ましたねえ。」

「×」の部分が聞き取れなかったとして、このように話しかけられた私たちは、普通どう答えるでしょうか。

 (1)「はい? 何とおっしゃいまして?」
 (2)「そうですねえ。」

実のところ、(1)でも(2)でも、どちらで答えても支障なしといえるでしょうね。
聞き取れていないということは、実は内容が伝達されていないということになるんですが、私たちの日常生活には、このように“こころ”が通じたことで良しとして、内容をまったく重視しないというような会話が決して珍しくありません。

また、天気をいったこの一言の目的について考えてみても、天気がどうであるという内容を伝達することは必ずしも目的ではありません。
あいさつことばとして、「お互い同じ空の下、きょうもこうして暮らしてる、この安心をさあ、分かち合いましょう。」とでもいうような、互いの表情や感情の共通することを確かめ合うことの方が、この場合は目的だったといえるわけです。

そのような目的で言葉を交わすのであれば、「×」の部分など聞き取れなくとも「そうですわねえ。」と答えておけばそれで十分、“こころ”が通じて一件落着となります。
むしろ「何とおっしゃいまして?」などと問いなおすことで、滑らかに流れるはずだったその場が気まずいものになることだってありますから、そうなるのは避けたいという思いもはたらきます。

 「十時よ、十時。」
 「十時ね。わかったわ。」
 「改札を出て右側の券売機の前にいるから。」
 「改札出て右の券売機ね。了解!」

この会話は、先に見た会話と違ってあいさつ的なものとは決していえないようで、「十時」の待ち合わせについてしっかり確認しておくことが最も重要な目的であって、“こころ”はさほど重要でないかのようにも見えます。
しかしここにもまた、互いが“待ち合わせ”という行為をどう捉えているかという“こころ”を表明し合う側面があって、それが「時間と場所の確認」と同等に重要なことであったりもします。

つまり、「十時」の待ち合わせについて、この二人が積極的かどうか、好ましいこととしているかどうか、あるいは他の諸々の用事に対してこの待ち合わせが優先順位としてどれほど価値の高いものなのか、といった“こころ”を確認し合うこともまた、この会話の重要な目的のうちとなるはずなんですね。

 「十時よ、十時。」
 「はい。」
 「改札を出て右側の券売機の前にいるから。」
 「はい。」
 「わかってんの?」
 「はい。」

このように、“こころ”の確認がしっくりとできず、どうもちぐはぐな会話となる場合もあります。
ここで何度も出てくる「はい」は「同意」や「肯定」を意味するのだから、語義としてみたら不足はないはずなんですが、これでは果たして“こころ”が通じているのかどうかよくわかりません。

近ごろの言葉では「テンションが高い」とか「テンションが低い」とかいうようですが、このように「はい」ばかりを繰り返せば、相手から「テンションが低い」と見なされて、相手の高いテンションと同調できていないという心配が生じてきます。

 二人とも同じようなテンションであるかどうか。
 心配が生じてこないかどうか。

こうしたことを確認するのもまた“こころ”の部分であって、“定義”としてどうのという部分ではありません。
私たちの日常会話では、かくも“こころ”が重要なんですね。
060316-3

イチローはまだまだ青いな。

WBC日本代表チームは、きょうで韓国に二連敗。
イチローは「屈辱」といってますが、どうでしょうね。

自分の口が偉そうにすぎた結果でもあるんだし、この大会、あらゆる空気が韓国チームを勝たせる方向に働いている、たまたまそういう空気になっているってだけのことでしょう。

日本はニューヨークヤンキーズ松井の辞退があったのに対して、韓国はすごい選手が大体出ていたり、国や国民の期待も日本とは比べものにならないでしょうからね。
戦後のオリンピックに出た日本選手みたいなことになってるんじゃないでしょうか?
そうだったらかなわなくても全然不思議じゃない気がします。

それでも接戦だったんだから、実力で負けてるという意味にはならないし、まあ、悔しくて当然でもあるけど、勝てなくてもしょうがないと思いました。

国内の女子バスケットボールはシャンソン化粧品が優勝したようですが、相手の日本航空もシャンソンも、監督さんは韓国人のようですね。どっちも日本語で選手に必勝の指示を出してました。

福原愛ちゃんは中国で活躍してるようだし、政治の世界と違って、東アジアも国境がなくなってきてるのかもしれません。
消えゆく国境を目の前にして、日本人が何をなすべきか、考えても解答のない問題を、年齢と共に考え続けることになりそうです。
060316-2

言葉の心、日本語の心。

「文法」とか、「Morphology」とか、どうもこれまで使ってきた用語はわけがわかりませんでした。
難しすぎたんですね。なにしろ私自身、難しすぎて手に負えない部分がありましたから。

今日から文体も変えて心機一転、もっと身近な言葉だけで“言葉の心”をさぐっていきたいと思います。
もちろん、「文法」をはっきりさせることが目的ですが、使う言葉が難しいとぴんと来ませんから、誰にでもしっくりとわかりやすいものを心掛けます。
書いてる本人がしっくりこないものは、いくら書いても読者に喜ばれません。
文章なんて、読んでもらうために書くものであって、自分のために書くのはヘンタイですから、読んでくれる人が喜んでくれてなんぼのもんです。

まだまだ精進が足りません。まだまだがんばりますので、宜しくお願い致します。
060316

子供には易しい。専門家にだけ難しい。

これまでにあげた「ちょっと」や「どうも」などという語は子供でも当たり前に使っている基礎的な語彙であるわけだが、辞書を引いてみた通り、専門の研究者にとってはどうやら解読不能な恐ろしく難しい語であるということらしい。

専門家がこれでは、人工知能に「どうも」と言わせることは不可能だろうし、「ちょっと」という言葉さえインプット不能である。

しかし私たち素人は物心つかぬうちから遣ったり聞き取ったりしている。

専門家には、「範疇」や「演繹」という語の方がきっと「どうも」や「ちょっと」よりはるかに易しいのだろうが、私たち素人や子供たちには正反対で、「範疇」や「演繹」なんてよくわからないが、「どうも」や「ちょっと」だったらとても簡単で、絶対に間違えて遣うこともない。

これはどう考えてもおかしな話である。

▼専門家
「どうも」「ちょっと」などの易しい言葉であるほど意味が特定できず、「範疇」「演繹」などの難しい言葉であるほど意味が特定しやすい。

▼素人や子供
「どうも」「ちょっと」などの易しい言葉ならわかりやすくて説明も要らないし間違って遣うこともないが、「範疇」「演繹」などの難しい言葉だと説明されてもよく理解できないし使いこなせる自信もない。

これはいったいどういうことか。
たとえばこんな説明ができるかもしれない。

「どうも」「ちょっと」などの易しい言葉がなぜ易しいのかといえば、それは言葉のこころが通じるからである。

「範疇」「演繹」などの難しい言葉がなぜ難しいのかといえば、それは言葉のこころが通じない、感じられないからである。

たとえば「あじゃぱー」という言葉がある。
これは『大辞林』を引いても出ていない。
ということは、専門家がそれを言葉と見なしてすらいないということである。

しかし私たち素人には、「あじゃぱー」のこころがわかるから、これは易しい言葉の部類である。(この言葉が流行したころにはだれでも理解していた。)

以下はグーグルで検索してみたときのヒット数(060314)
あじゃぱー(ひらがな):27,900件
アジャパー(カタカナ):24,700件
060314

和語の仕切りは和語の仕切り

「見る」という語があるが、辞書では複数の意味に分類するのが普通である。(以下『大辞林』より抜粋)
  1. 目で知覚する
  2. 風景などを楽しむ
  3. 映画やスポーツを鑑賞する
  4. 文字や図で表されたものを理解する
  5. 存在を認める
  6. 判断するため状態を調べる
  7. 判断、評価する
  8. 診断、診察する
  9. 手相などで占う
  10. 鑑定する
  11. ある立場に立って判断する
  12. 特定の範囲から結論などを導く
  13. 世話をする
  14. 実現する
…とこのようにざっと見ても「見る」一語が大変な種類に「分類」されている。

学校の国語の試験などでも、

「次の各文の“みる”は、AからDのどの意味か。」

というような出題があって、子供たちはその分類に従うことを強制され、

「見るは見るなんだからどれも一緒じゃないか。」

などと考える子供は、1点ももらえない。

祖母「ひろしや、ちょっと見ておくれ」
  孫「見るって、観察?それとも診断?ちゃんと正確に
      言ってくれないと困るなあ、おばあちゃん。」

家庭でこんな会話になったら悲惨である。

日本語を母語として生まれ育ってきて、「見る」という語を誰も間違いなく遣っている。それはひとえに「見る」という語の意味の仕切り(カテゴリー)を頭の中にしっかりと作ってきたということなのであって、その仕切りの中にさらにまた別の仕切り(上記1〜14)を作ることは、日本語での実生活から得られるものでは到底ない。

「知覚」なら「知覚」で意味がわかるし、「楽しむ」は「楽しむ」である。いずれも「見る」とは別の仕切りにある言葉である。

「映画を見ましょう」という普通の言い方がある一方で「映画を鑑賞しましょう」という堅苦しい言い方もある。それぞれ色合い(ニュアンス)が異なるから、話す状況によってどちらかを使い分けるのが当たり前であるのに、辞書や国語教育は、「言い換え可能」であるかどうかによって「分類」というものを強制してくる。

もっとも「分類」が不要というわけでは決してない。
しかし「分類」が、「定説」とされる学説だけに許された特権であるはずはないのであるから、たとえば「和語を漢語と対照させて、漢語の仕切りに従って和語を仕切る」ことがさも正しく当たり前であるかのような「分類」でよいのか?

確かに和語というものは、意味が漠然としていて特定しにくいとう性質があるのかもしれないが、特定しやすい漢語や外来語が、和語より優れたものであるかのような印象を与えられ続けて育つ日本の子供たちを心配する必要もあるのではないか。

漢語や外来語を多用する話者よりも、和語だけで言いたいことをしっかり伝えられる話者の方が、実際のところはるかに好感度が高い。

国語教育の目的とは本来、好感度の高い話者を育てることにこそあるのではないだろうか。
060312

「ちょっと」とはどういう意味か? 心的意味を特定すれば具体的意味も導出できるという簡単な話

「どうぞよろしく」なんてのは、言葉としては内容がない。中国語なら「多々指教」かもしれないけどそれだって「たくさんのご指導をお願いします」という意味で具体的な内容を含んでいる、しかし「どうぞよろしく」には内容らしい内容がない。
考えてみれば「どうも!」なんてのはその代表かもしれない。
「先生、”どうも”ってどういう意味ですか?」と学習者に聞かれれば、私は「言葉のお辞儀です」と説明することにしていたけど、そういう説明をしている参考書や辞書はどこにもない。ないけどそれ以上に説明のしようがないと思うからそう説明していた。(興津 平成十三年六月七日『台湾茶掲示板』への投稿から)

「どうも」の意味について、ネット上に初めて書いたのがこの文であるが、「言葉のお辞儀」というこんな簡単な意味であってさえ、日本人は説明に窮してしまう。

「どうもって、どういう意味?」
こんな質問を外国人にされて、一生懸命に解答を考えるのだが、どう頑張っても簡単明快な説明ができない。それは専門の研究者にさえ全くお手上げなのである。

日本語には全般にこうした“意味不明”の単語が溢れている。

「ちょっと」という言葉も説明が難しい。
説明が難しいのは、「客観的にどんな事象を指すのか?」という説明をしようと考えるからであって、そもそもその「客観的」という視点が狂っているのだ。

幼い子供たちが植木鉢で遊んでいてベランダが泥まみれ。それを見つけた母親が慌てて、

「ちょっと、ちょっと!」

と叫ぶ。

この「ちょっと」とは何か?
三省堂の『大辞林』にあたってみると以下のように「説明」されている。

  • 数量・程度などがわずかなさま。時間が短いさま。
  • 軽い気持ちで行うさま。特に何という考えもなく行うさま。
  • 大層というほどではないが、かなりの程度・分量であるさま。
  • (下に打ち消しの語を伴って)簡単には(…できない)。
  • 軽く相手に呼び掛ける語。もしもし。

「わずか」と説明していながら「かなりの程度・分量」と書いている。これではまったく説明にならないどころか、日本語を学ぼうとする外国人を逆に絶望の淵へと突き落とす。

全体を通して読んでみても、要するにこの辞書でこの項を担当した人とその人が集めた資料を書いた人々には、「ちょっと」を説明するだけの能力がまったくないと見なさざるを得ないわけだ。

岩波書店の『広辞苑』ではどうか。

  • わずか。少し。
  • 存外。かなり。
  • しばらく。
  • こころみに。
  • ほんのついでに。
  • 少々のことでは。そう簡単には。

『広辞苑』もこの通り、『大辞林』同様、まったく役に立たないことがわかろう。“要するにどういう意味か”に対する解答がないのだ。
第一、上にあげた母親の「ちょっと、ちょっと!」という子供に向けた叫びを『大辞林』や『広辞苑』の中の各説明に言い換えてもいずれも意味が通じない。

日本語の専門の研究者が、日本語の最も基本的な単語について説明ができない。
これが現状であり、現実なのである。なんと嘆かわしいことであろう。

では以下に「ちょっと」の説明をまとめる。

「ちょっと」には、量の「少し」という具体的な意味のほかに、下記の心的な意味がある。

  • (流れの)途切れ、障害

「どんどこ、どんどこ、どんどこ、どんどこ・・・・ちょっと。」
と、このように表れるのが「ちょっと」である。

「どんどこ、どんどこ…」と流れているところへ障害物が挟まって途切れ、「ちょっと」となる。

「なんだい?見せてごらん。…おお、これはちょっとすごいねえ!」

話し手は、平常心という状況の流れの中で見るつもりであったが、見せられた物によってその平常心が途切れたことを「ちょっと」によって表現している。

「ちょっとトイレ。」

これも同じで、「少し」を意味しないところの「ちょっと」はいずれも同様の説明となる。会議や麻雀などで時間が流れているのを途切れさせてしまう時、いきなり「トイレ」と言うのはぶっきらぼうというものであるから、そこに「ちょっと」を差し挟む。
「タイム!」という時に「ちょっとタイム!」と言いたくなるのも同様である。

「ちょっと」は途切れを最小限に抑えたいという思いから、その途切れの程度が「少し」であるという意味で頻用されるようになったのではないかと思われるが、現代では“途切れ”そのものを強調するために語気を荒げて「ちょっと!」などと叫ぶことも普通になっている。

「ちょっと、ちょっと!」という母親の叫びもそういう意味であるから、別の言葉に言い換えるとすれば、

「待ちなさい!」

となる。
以下も同様で、

「山田君、ちょっと。」
…といえば、「今やってる仕事を途切れさせて(悪いんだが)、話がある。」という意味。

さらに具体性のない婉曲表現に以下のようなものがある。

「私にはちょっと…。」

これは、「あなたが私にしようとしている話は、私を相手にしてはスムーズに進みません。」あるいは「あなたが私に問いたい質問は、私からは返答できません。」といった意味。
「私にはちょっと…。」がどんな文脈で発言された場合であっても、「途切れて流れない」「スムーズにいかない」「障害がある」という意味となり、いずれも同一の心的意味を表す。

言葉には心がある。
その心が何であるのかを特定する努力を怠ってきた結果が、『広辞苑』や『大辞林』に見られる日本語研究の体たらくなのではあるまいか。
060311

命令形と敬語、どっちを言われたいか?

「命令形を使って話す男って、偉そうでいやだわ。」
教員をしていた二十代後半の女性の発言であった。

すかさず私は面白い例を紹介してさしあげた。

雨が降っているが傘もない。貴女はひどく傷ついて泣いている。涙も枯れんばかりに泣き通しで食事もしていない。
そこへ心優しい男友達が紙袋を持って現れる。
貴女が濡れないよう傘を差しかけ、見れば湯気と、おいしそうな匂いを発しているその紙袋を差し出して一言。

1.「食べろよ。」
2.「食べて下さいよ。」

さあ、どっちの台詞がじーんと来る?

そう問われて彼女は涙を浮かべ、
「そうねっ!命令形の方が断然いいわ!」
私が「食べろよ」と言った瞬間、じーんと来たらしい。

命令形は、よくそれを避ける言い方や敬語と対比されて丁寧か否かでその価値を判断してしまいがちである。
しかし実は命令形も敬語も、相手との距離を調節する言葉でもあるのだ。

命令形を避けることによって生じた距離が、せっかくの優しさを打ち消してしまうこともある。
こうした当たり前のことを誤解している人もいて、そういう人には言葉のセンスがない、ということになる。

危険が迫ったら、
「逃げろー!!」
と叫ぶのが正しいが、センスの欠けている人は、
「逃げてください!!」
と叫ぶのかもしれない。

「え? なにを下さいだって?」
その一瞬が生死を分けることもある。
060310

「どうも」の意味


 老師!「どうも」是什麼意思?
 (先生!「どうも」ってどういう意味ですか?)

そう聞かれたら「ぺこり!」と頭を下げる。下げた頭を指でさして「こういう意味です。」と教えれば良い。
「どうも」は言葉の上でのお辞儀なのである。

「どうも」と言いながら、ぺこりと頭を下げれば、その挨拶はほぼパーフェクトとなる。

 「この木彫りの形、どうもよくわからんなぁ…。」

という場合の「どうも」は、首を傾げる意味である。
「どうも」は、どっちにしてもこうべを垂れる意味になる。

 実るほど頭を垂れる稲穂かな

稲穂は「どうも」と言って微笑んでいるのだ。
060309

死んでいただきます

1と2を比較されたし。

1.先生、ひとつ教えていただけますか?
2.先生、ひとつ教えてくださいますか?

1は、「いただく」を「いただける」の可能の形にして、さも丁寧さ十分の風である。しかし2と比べると、先生を敬う心掛けに、大いに差が感じられるはずである。
しかし昨今、2の「くださいます」の使用頻度が世間から激減しているため、2は微妙に古風とさえ感じられ、1ならごく普通の丁寧な言い方と感じられる。
これが問題なのである。

3.死んでくれ。
4.死んでもらう。

「くれ」というのは「くれる」の命令形である。
ところが命令形を使用している3の方が、4よりも低姿勢である。
3の「死んでくれ」には、「頼む」という姿勢があるが、4にはまったくないためだ。
「死んでくれ」なら、窮極の言動として、泣きながら発する言葉ともなるが、「死んでもらう」では、あまりに冷血である。

では4をもっと謙って言ってみたらどうか。

5.死んでいただく。

慇懃無礼も甚だしいというところである。
いくら「いただく」などと謙ったところで、「くれ」と命令形にした「死んでくれ」と比べたら、やはり相手にお願いするという姿勢が皆無であることに何ら変わりはないのである。つまりこれにも冷血さこそあれ、「死んでくれ」のような泣きながらの窮極の言動とはなり得ない。

「いただきます」は、どこまで行っても一方的なのである。一方的に自分が謙るばかりで、相手のことなど考えなくとも発することができる。
それが「いただきます」なのである。
060308

いただきます

きょうは「いただきます」の話であるが、食事のことではなく、謙譲語のことである。
どうも最近、耳障りな「いただきます」が多いようなのだ。

 先生に教えていただく。

とまあ、このように遣われるのが「いただく」である。
分解すると以下のようになる。

 先生に :相手としての先生
 教えて :先生の動作
 いただく:謙って言う自分の動作

まずこの文の中には、「先生」を尊敬する部分がない。「先生」という呼称それ自体はまあ尊敬であるが、「教えて」は尊敬でもなんでもないし、「いただく」は自分の動作で謙譲語なのである。

「いただく」に対しては、「くださる」を遣う言い方もある。

 先生が教えてくださる。

 先生が :動作主としての先生
 教えて :先生の動作
 くださる:敬って言う先生の動作

このように「くださる」を遣えば「先生」を尊敬する意味合いが入ってくる。

しかしどうも最近は、「くださる」でも言えるはずのところを「いただく」ばかり遣っている、あるいは「いただく」しか遣えないという人が多すぎるのではないだろうか。

「〜していただく」という言葉の基本的な意味は「〜させる」という、いわゆる“使役”と同義でもある。
例えば「先生に教えさせる。」などと言えば失礼きわまりないわけである。

もちろん、「先生に教えていただく」なら、精一杯の謙りが「いただく」に込められているから、失礼というほどのことはないとも言えるわけなのだが、「尊敬」「謙譲」などを取り払った語義そのものの部分では、どこまで行ってもこれは“使役的”なのである。
尊敬ではなく、使役と通ずる意味合い、それが「〜していただく」なのである。

だから、できれば「〜してくださる」の方を優先して用い、「〜していただく」については、「くださる」で言い換えのできない場合に限るようにするのが、本当に正しい日本語だといえるのではあるまいか。

「くださる」が遣えない、「いただく」しか遣えない、どうもそういう人が増えてきているように感じられてならない。これこそが、日本語の乱れというべきものだ。


附記
「先生にお教えいただく」とすれば、「お教え」に尊敬が入ってくるので、「教えていただく」のように失礼な色合いになることはない。
060307

アイスクリーム富士

この冬はスケートに行かなかったので、夢で三度も見たなどと次女にいわれてしまい、きょうやっと親子三人で行ってきた。

東名高速裾野インターから富士山を登っていく方向にある旧日本ランド遊園地であるが、名前はグリンパと変わっている。
夏でも寒いところだけあって、陽射しがなければ凍てつく寒さだったが、巨大なアイスクリームのようにも見えて富士が見事だった。

遊園地全体は、シルバニアファミリーという、イギリス発祥の人形の家シリーズを実際に人間が入れるよう実物以上の大きさに再現したテーマパークのようになっている。我が家でもこのおもちゃには親しんできているので子供たちはまんざらでもない様子だった。

スケートは、三回転ジャンプやイナバウアーに挑戦といきたいところだったが立つのがやっとでとにかく靴が痛い。なんとか慣れて滑ることはできたが、マイシューズを買うにはリンクが遠すぎる。
子供たちもせいぜい二時間も滑っただろうか。

午後には曇ってきて微かだが雪もちらついた。下界とは十五度以上も気温が違ったのではないかと思う。

スキー場やソリ遊びの斜面もあるが、リンクの周りに積もった雪で小さな雪だるまもできた。
子供たちがこの冬初めて触れる雪と、やっと滑れたスケートだった。
豪雪と低温に恐れをなして閉じこもっていたこの冬も、なんとかこれで役目を果たせたことになる。
060304

ひな祭りのプレゼント

きょうは耳の日でもあったかもしれないが雛祭りである。
雛飾りは二月二十七日の月曜にできているし、餅つき器で餅もついてもらった。ちらし寿司を期待して帰宅すると、「ケーキは?」と長女。
そういえば一昨日だったか、三日にはケーキを買ってきてやると気前の良いことを言ってあったのだ。すっかり忘れていた。

先にちらし寿司をいただいて、次女とケーキ屋を探しに出掛けた。一軒見つけて入ってみると、雛祭り用のケーキというやつがまだ二つ売れ残っていた。
かなり小さいが、ショートケーキなら四人分はあるという。うちは五人なのでショートケーキをひとつ追加して三千円を超えた。雛祭り用のケーキを四で割ってもショートケーキの二倍ぐらいの値段だったが仕方がない。
娘たちの成長は何より尊いし、その娘も二人しかいない。そんな思いからどうしても過保護になりがちだが、まあそれも仕方ないと思うところである。

テレビでは王ジャパンの試合を実況中継していたので夢中になって見てしまった。ワールド・ベースボール・クラシックというそうだが、野球のワールドカップみたいなやつである。
相手は野球後進国の中国。昼間すでに韓国が二対〇で台湾を下しているし、中国選手より日本選手の方がきっと高い給料をもらっているはずだし、大リーガーのイチローまでメンバーになっているのだから日本が負けるわけにはいかない。

期待通り、日本の快活な野球少年たちは伸び伸びと中国をボコボコにしてくれた。五回からの猛攻で八回までに十八得点でコールド勝ち。先発投手の上原が四回に打たれて二点も取られてしまったが失点はそれだけであった。

大陸からはるばるやってきて、屋根付きの大球場も初めてかという中国選手たちには気の毒であったが、ここまで完敗すればかえって悔しさもなかろう。

多少心配だったのはイチローで、クリーンヒットと言えそうなヒットが出ない。全六打席のほとんどが内野ゴロで、ヒットになったのもショートへの内野安打一本だけ。
開幕当初が調子悪いということもあるし、まだ三月になったばかりだから大丈夫だろうとは思うが、大したピッチャーでもなさそうなのに打てないというのは、体が硬くなってでもいるのだろうか。私のような素人にはちょっとわからないところである。

とはいえ、日本の若い選手たちは、アメリカで大記録を達成した偉大なる大リーガーがチームに加わってくれて、きっと色んな意味で特別な試合ができるのではないかと想像する。
イチローへの気持ちは、憧れ、尊敬、目標、あるいは僅かな妬み、どんなものであってもこのチームでのプレイにプラスの影響を与えてくれるのではないか。

奮発してケーキを買ってやった父ちゃんには、この初戦がなかなか嬉しいプレゼントであった。
060303

満開の桜

激しい雨のあと、かなりくたびれてしまった桜である。
散ってしまっても、そのあとでサクランボが食べられるからありがたい。まあ、大した数にはならないから、たっぷり食べようと思えばやはり買って来なければならない。

クリックしていただくと別ウインドウで写真を拡大する。
060302

丹後の言葉と駿河國中島村の言葉

このところ、日本映画専門チャンネルで溝口健二の作品をかけてくれている。
昨夜は昭和二十八年の『祇園囃子』を堪能した。見事な芸術作品である。何千円払ってでも見る価値があると思う。

京都の言葉というものが映画でどこまで正確におこなわれているものか、京都に住んだことがないし、京都出身の友人もさほど京都らしい言葉を話さなかったのでわからないのだが、ちょっと気になる言葉があったので、ここに書き記しておきたい。

東京方言等で「来てご覧。」というところを「来てお見。」といっていた。
「ご覧」というのは、「見」の尊敬語である。
「お見」というのもまた、「見」の尊敬語であるから、まったく同義といってよいだろう。
追記:「ご覧」が漢語であるのに対して「お見」は和語のみであるから、「お見」の方が美しいと感じるところでもある。(060302)

この「お見」が、前の「て」から繋がって発音されると「来とおみ」、または「来とみ」となる。
追記:「やっておく」が「やっとく」になるのと同じ短縮である。(060302)

気になったというのは、私の住むこの安倍川河口左岸の中島(奈良時代から明治初期まで「駿河國有渡郡中島村」明治初期より「静岡縣安倍郡大里村中島」現在「静岡市駿河区中島」)でも、昔は使われていた言葉だったためだ。

亡くなった祖母などもよく遣っていた。
「ほれ、見とみ!」(ほれ、見てご覧!)というように言うのである。

映画でそれが正しく京都の言葉として遣われていたものか、あるいは至って広汎に遣われるものなのか、現時点ではっきりしたことは言えないが、駿河國中島村では、かつて丹後守の領地だったためか、「おおきに(ありがとう)」という言葉もよく遣われてきている。

「お見」については、方言というほど固有の言葉遣いとも思われないから、それをもって我が中島の、丹後との繋がりを云々するのも見当違いかもしれないが、静岡市の他の地域と異なり「おおきに」が遣われてきたことを考えれば、全く無関係とも言い切れまい。

ちなみに「静岡方言」としては、「見てご覧」なら「見てみよ」、あるいは「見てみょお」という言い方がよく知られている。
これはどっちかというと三河など、すぐ西の方と同じような言葉になるのではないだろうか。

「見てみょお」には尊敬語と見なすことのできる部分がないが、「見とみ」の「お見」は確かに尊敬語であるから、静岡市、あるいは大里村の中でも、中島の言葉には若干品があったということもできるのかもしれない。
060301

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お寒うございます
昨日、今日と寒くて雪の降るところもあるようですが、これでは真冬に逆戻りです。静岡市では2月の最高気温が、3月よりも高かったということになりそうな気配です。サクラは早くから開花しておりますが、この寒さで縮こまっていることでしょうから、心配された入学式のころまで持ちこたえそうで、その点よかったと思うところです。
仕事で経費の節減について調べたり考えたりしておりましたが、自分の生活もまあしかし無駄が多く、がんばらないと子供を進学させてやることもできません。これからはなんとかしてまとまったお金を貯め込んでやろうなどと考えますが、いま頭でそう考えたからといって、この怠惰な暮らしがそう簡単に改善されるわけでもありません。
自分の生き方を採点するとすれば、今のところはまだとうてい及第点に届かず、せいぜいその半分ぐらいというところでしょうか。及第点の半分が半分なりに、さえない顔になって表れていることと思います。気分がその通りだからです。
060330
たまには民放テレビでも…
たまには民放地上波のテレビでも見てやろうかと思ってつけますと、やはりというか、芸能人が喋ったり笑ったりしています。
バラエティーものというんでしょうけれども、どこのチャンネルも同じような番組ばかりでうんざりしてやっぱり見ないということになります。
しかしこのゴールデンタイムにどの局も芸能人バラエティーということは、それを求める人が多いということなんでしょうね。
NHKに受信料など払うものかと怒っている人も少なくありませんが、内容の希薄な民放のバラエティーを見るくらいならNHKの方がよほどましです。
それで結局ほかに選択肢がないのがつらくて、BSデジタルとか、CS放送も見られるようにしています。CS放送はうちの場合、毎月3,139円という“まとまったお金”を払わなくてはなりませんから、そもそも無料の民放を見てCMにまで付き合わされていたのではそのお金が無駄だということにもなります。
それで最近は、たまに民放でCMを見ると見たことのないCMばかり、芸能人も知らない人ばかりになっています。
こうして「世の中」から取り残されておじいさんになっていくんでしょうね。
060328
「ググりゃ一発」
2ちゃんねるにあった何気ない一言です。いくら隠そうとしても「ググりゃ一発」。「いい時代になったもんだな。」という書き込みでした。
まったくその通りですねぇ。わからないことがあったら、ブラウザを立ち上げて、ヤフーでもグーグルでも検索してみれば何でも出てきます。個人名からどんな人かを知るのも、ヒットすればすぐにわかります。
これがインターネット以前ではどうだったでしょう。ちょっと思い出してみますと私の場合、書店に足を運ぶ頻度が非常に高かった。辞典や事典を引く回数も多く、図書館にもよく行ったもんです。
それが今では、ほとんど自宅にいるだけで何でもかんでもわかってしまいます。辞書だって、無料で使えるものが公開されていますし、ニュース記事もすぐ見つかる。ウィキペディアのような百科事典もある上に、著作権の切れた文学作品もすべて無料です。
電話線を一本、マックにつなぐだけで、世界の情報が自由に手に入ります。これだけでもう、何にも要りませんねぇ。
060327
快楽主義
自分は快楽主義者だと思ってまいりました。そして、快楽主義は悪いことだとも思っておりました。
でもちょっと最近、考え方が変わりつつあります。というのは、なにを快楽とするかが問題なのであって、良いことを快楽とし、悪いことを快楽としなければそれで良いではないか、ということです。
例えば、お金を遣うのが快楽だというのは、あまり感心しないことですから、その逆に、お金を遣わないことが快楽だ、ということになれば良いわけです。前者は貧乏人で、後者は金持ちと言って間違いのないところです。
私も最近、貧乏人でいるのに疲れてきましたので、お金を遣わないことを最高の快楽とする者になろうと思っております。最近は何とか、そうなりつつあります。
060324
日本がWBC初代チャンピオンに
きょうはじっくり観戦させていただきました。キューバはとても親日的ながら得体の知れない強いチームでしたが、王ジャパンがやってくれました。
優勝決まってたくさんの日の丸がグランドで振られましたが、そこで韓国旗も、振っておけば良かった。恩を売るってわけでもないですが、そうすれば韓国の人たちだって泣いて祝福してくれたんじゃないでしょうかね。
シャンパンファイトの中でのイチローのコメント。「王監督の野球人としての素晴らしい品格、それをぼくらは学んでいきたいと思ってます。」
060321
たばこ
吸えるところがまだまだ多い日本ですが、そのうち厳しくなってくるんでしょうか。でも最近は、やめようと思えばいつでもやめられそうに思います。でもやめるメリットがさほどないのでやめていません。吸えないところでは吸わなければいいだけの話です。吸えるところでは吸ってますが、すでに子供と食事に行っても禁煙席です。何時間吸えなくても我慢できずに禁断症状なんてことにはならない自信があるので、一向にかまいわないんですね。世間には、どうぞ好きなようにしてください、といっておくことにします。単なる流行の問題なのに、禁煙ファシズムみたいに騒いだり、子供にも騒がせる教育をしたりするのには辟易します。まあそういう人たちは差別好きの動物ってだけのことでしょうね。昔はたばこの匂いなんて誰も気にしなかったというのが紛れもない事実なんですから。
060320
Jリーグ、エスパルスが3試合無失点
まだ第3節ですが清水エスパルスが失点ゼロ、3勝0敗0分けです。得失点差で1位のFマリノスに次いで2位ですが、18チームで無失点はエスパルスだけみたいですね。まだ甲府と名古屋とFC東京と対戦しただけですが…。
060319
明日三度目の対戦
韓国代表チームはなにしろ負けなしでここまできた。兵役免除も決定した。やり遂げた!という達成感があることでしょうね。
日本代表チームはまだ全然、なにもしてないに等しい。勝てたのはともにコールドゲームだった中国と台湾。そして日本を準決勝に進めてくれたメキシコだけ。メキシコは早くから予選リーグ敗退が決まっていたし、野球よりもサッカーが盛んで強い国。
つまり日本は強い国とは勝ちがないということですから、準決勝戦を戦う資格自体どうなんだと、単にそういう決まりだったからたまたま進めただけじゃないかということで、まるでシード権でいきなり準決勝を戦うみたいな感じです。
これで韓国に勝ったにしても、対戦成績は1勝2敗になるだけですから、決勝進出させてもらっちゃってほんとにいいの?みたいな気になるところでしょう。
とはいえそういう決まりなんだからしょうがない。「何も失うものがない(王監督)」んですから、実力を出し切っていただきたいもんです。
勝つなら今まで韓国から失った点を倍にして返すぐらいで勝ってくれないと、決勝進出を疑問に思われそうです。
060318
高知市に次ぐ全国二番目の開花
きょう静岡市で桜の開花が発表されました。あと一週間で見ごろだそうで、観測史上二番目に早いんだとか。
しかしこんなに早くてどうすんでしょうね? 入学式のころまでもちません。新入学になる子供たちがちょっとかわいそうです。
060317-2
開花予想…
さくら情報というのを見ると、静岡の開花予想は全国的にも高知に次いで早い昨日となってましたが、もう咲いてるんでしょうか?
WBCは、アメリカが2点取られてメキシコに負けてくれたおかげで、日曜に準決勝、三度目の韓国戦だそうですねえ。まさか日本の三連敗はないと思いますが、韓国チームも三連勝しなければならないんですから本当に大変なことです。どっちも頑張れ!
060317
心機一転…
…となりますかどうか。自信はあまりないんですが、今夜はちょっと暖かい雨が降っております。
野球はアメリカが発祥ですが、日本も大変な長い歴史です。スポーツ全般、イギリスなどはすごい歴史の国ですが、昔からやってるからって強いとは限りません。発祥の地が必ず優勝しなければならないなんて考えたら、イギリスはサッカー、ラグビー、クリケット、、、と、とても選手が足りないんじゃないでしょうか。
歴史と文化に誇りがあれば、新参者に負けても素直に讃えてあげたらいいんです。
060316
円周率の日だそうですね
「産医師異国に向かう産後厄なく産婦御社に虫さんざん闇に泣く」ってのがありましたが、覚えたからって御利益なさそう…。
060314
三月も、もう三分の一
昼休み、川向こうまでガソリンを入れに行って、タイヤを見てもらったらバルブから空気が漏れてました。預けることになって、会社から迎えに来てもらいました。
花があちこちで咲いております。三月だなぁと思いながら眺める安堵感。子供たちはあと一週間で春休みです。
060309
春が来た
極端に暖かい日もあった二月でしたが、三月初日は寒い雨となりました。
裏庭にあるさくらんぼのなる桜の木が満開の花を咲かせています。写真も撮ろうと思いつつ、雨だったりなんですねぇ。散ってしまいそうです。
060301
掲示板の変更です。
最近ずっと海外からの変てこなプログラムに荒らされまして、当サーバー内に設置していた「雑談版」と「ゲストブック」が見苦しいことになっておりました。
そこで本日、誠に勝手ながら、両ページを廃止し、新たに"BBS"を開設いたしました。
060216
朝の書き込みです。天気予報では本日の気温は23〜25度となってます。昨日は21度だったそうです。初の夏日が2月15日となりますかどうか。
060215
静岡競輪場で開設記念競輪をやってます。あす土曜が準決勝戦、あさって日曜が決勝戦。地元選手もなかなかがんばってますので、お近くの皆さん、是非お越しください。けっこう面白いんだこれが。
静岡新聞をお読みの皆さんは、あすの朝刊に無料の予想記事が掲載されます。小田競という専門紙の全面的なご協力で実現したもので、今回が3回目。初めは昨年の日本選手権競輪、2回目が昨年の竹千代カップファイナルでした。
第9レースから最終11レースまでの専門紙記者さんによる詳しい予想記事が無料で読めるんですよ〜。是非ご覧ください。
060210
うっかり二月です。
正月三十日の気温のことを忘れぬよう書いておきますが、静岡市は清水区で22度。旧静岡市の方でも21度を記録したようです。
静岡市には時折こういうことがありまして、フェーン現象というものなんですね。詳しいことは難しいのでよくわかりません。
060202
じゃじゃーん! 静岡市は清水区で気温が20度に達したそうです。もうこのまんま、冷えないでもらいたいもんです。
060130
12月はひどく寒かったんですが、正月は風が吹きません。天気予報では「西の風やや強く」などと毎日出ておりますが、ちっとも吹かないんです。どうなってるんでしょうね。不思議です。気温もぼちぼち上がってきているようですが、このまま暖かくなってもらいたいものです。
060126
平成18年、2006年となりました。
あけましておめでとうございます。皆様方には平和な年となりますようお祈り申し上げます。
060101
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