jomon.sumpu.net from Suruga, Japan
静岡市駿河区から日本語・パングラム・車・等々の内容をお届けする『縄文ネット』. デザイナーで日本語教師の興津諦が個人運営.  

空想を事実といって崩壊した民主党の無能さ

それがEメール形式に文字が並んだだけのハードコピー(プリンターによって紙に印刷したもの)であるという点からして、なにかを証明する“証拠”とはなりえないことは明らかであった。
このようなものを作ることは小学生にでも可能であった。

ハードコピーではなく、もととなるデータの送受信履歴を提出してはじめて証拠となるものであることは、今の時代、小中学生でも知っている。

ところで、平安後期にこのような“テキスト”がある。

いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそ
つねならむ
うゐのおくやま
けふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

誰でも知っている「伊呂波」であるが、作者も不明。いつどこで作られたかも不明。

この不明のテキストについては、想像力逞しくして作者を推理し、「事実」まで推理するということが行われたことがある。
これが「暗号」だというのである。

もちろん何の根拠もないから、いくらそんなことを本にまとめても単なる空想にすぎず、歴史的価値は皆無である。

しかし書いた人はいたって真面目で、これこれこういうふうに推理が可能であるから、事実でもありうると主張するのかもしれない。

お話としては面白いから本はそこそこ売れたらしいが、読者たる私たちは、それが事実と何の関係もないという点を決して忘れるべきではない。

民主党永田寿康らによる、自民党武部幹事長とその御二男を罪人扱いする国会での発言は、このように「お話としては面白い」ものを「事実だ」とした間違いから起きたものである。

永田(そのうち容疑者となろう)は自分が人間未満の無能であることを証明し、党首の前原(これも)や野田(これもそのうち容疑者であろう)などをはじめとする民主党全体が、国会に出てくるに値しない似非政治家の集団であることも証明したと見るべきだろう。
060227

荒川静香選手金メダルおめでとう

トリノ五輪女子フィギュアで荒川静香選手が優勝した。
この冬季五輪大会、日本勢の活躍がほとんどないようで、カーリングぐらいしか見ていないのだが、女子フィギュアスケートは、一昨日のショートプログラムを何となく見ていたら、荒川選手が3位につけて、きょうのフリーの出来によってはメダルもありうるということになり、今朝は早くから寝床のテレビで観戦した。

どうやら彼女にはプレッシャーがほとんどなかったらしい。優勝という結果についてもインタビューでは信じられないというばかり。とにかく観ていてかたさがまったくないから安心感があった。その点で他の選手を圧倒していた。
すばらしいものを見せていただいたことに感謝している。

似顔絵はさきほど自分で描いたものである。クリックすると別ウインドウで拡大する。
060224

中国ビジネス、実は不道徳ではないのか?

中国経済の急成長ぶりに乗り遅れまいとする中国への投資がまだあるようで、我が尊敬する邱永漢先生などもさかんに中国で成功すべしと発言しておられるが、私なりの考えを整理すると以下のようになる。

14億を超える人口で、市場の規模があまりに巨大だから、ごく一部の急成長でもとんでもないお金を生み出す。
しかし中国という国それ自体は、うわべが変化するだけで、本質的には何も変わらない。
最近では、言論の自由を求める声が高まったり、頻繁に農民の大規模な暴動が起きたりしている。
一党独裁の共産党政権もそろそろ方針を変えなければならないところなのかもしれない。
そして中国経済。急成長しているのは間違いないだろうが、ほとんどすべての外国資本は、できることなら中国から逃げ出したいと考えているのではないか?
中国という国が、安心して投資のできる国でないのは自明である。
自明であるが、目先の利益のためには投資するという選択になる。
それは決して長期的な見方によるものではないから、いつ何が起こっても、さっさと逃げ帰るなり、インドシナなど他国へ移すなりして中国に見切りをつけることは誰でも考えているのではないか。
小回りの利く投資を行い、決して中国だけに依存するような態度では誰しもないのではないか。

とにかく、中国という国は、世界の嫌われ者なのである。
まずルールが通用しない。道徳がまったく通用しない。人の道がどこにあるのかわからない。
中国人ひとりひとりについて見れば、良い人もあり、悪い人もありで、どこの国とも変わりはないが、中国人だけで集まって社会を成し、国を成せば、どうしようもない町、どうしようもない国ができあがる。
どうにもこうにもそういうことになっている。

そういうところで金儲けをしようと考えるのは、実は不道徳なことではないのか?
以前アムウェイについて書いたことがあったが、あのような不道徳なる商売しか通用しない、それが中国なのではあるまいか。

自国民を数千万人殺してきた政権がいまだ続いている。
その政権に目をつけられない範囲でのみビジネスが成り立っている。
この点だけ見ても、十分に不道徳なのである。
060223

安全について

何が怖いといって子供をまもれない事態が最も恐ろしく、子供に襲いかかる気狂いが一番怖い。

「気狂い」という語を入力するのに一発変換ができないので「きくるい」と入力している。だから「気狂い」は「きくるい」と読んでいただければ良いだろう。

今回の凶悪犯罪も、気狂いによる凶行である。
気狂いは人間関係や生い立ちなどから精神に異常をきたした結果生まれてくる。
気狂いも人間であり、一見しただけで見分けがつかぬばかりか、普通の人間どうしのような会話すら成り立ってしまうから、誰が正常で、誰が異常な気狂いか、判別するのは極めて困難である。

はっきりとした判別はできなくとも、普段からできることはあろう。

まず誰に対しても、人を追いつめないことである。悩んでいる人がいたらひと時でもいいからその人の言葉を親身になって聞き、味方になってやることであろう。

孤立している人がいたら、自分は味方だと思ってもらうことであろう。
その人が言葉で主張できずにいたら、代弁してやることであろう。

そのようにして、その人が気狂いにならないよう、予防してやる努力を怠らぬことであろう。
なにもせずにいることは自分の子供を危険にさらすことにもなりうるのだ。
060221

続・異邦人 〜滋賀県長浜市相撲町における中国人による幼稚園児惨殺事件〜

一昨日のようなことを書くと、「凶悪犯人擁護だ」とか、「またお決まりの日本社会批判か」などと反発する軽率なる向きがあるかもしれないので、念のため補足しておく。


1.異邦人に必ずついて回る問題を認識せよ

中国人に限らないことだが、異邦人として日本社会に暮らせば、母国ではあり得なかったような精神的トラブルに見舞われる。

母国で経験したことのない局面であるから、それを言葉で表現し、他者に理解を求めるのは非常に困難となる。

通訳がついてくれて母国語で話すことができたとしても、その精神的トラブルは、母国でも未経験なのである。
それをどう表現することができるというのか。

つまり異邦人なら誰でも、言語の問題では決して括れないコミュニケーションの問題に必ず遭遇するのである。
これは自分が異邦人になってみればすぐにわかることである。

しかし不幸にも、異邦人を取り巻く“現地人”のほとんどは、自分が異邦人になったことがない。
だから異邦人が困窮している問題が何なのか、さっぱり理解できない。


2.日本人が認めたくない「対立」や「孤立」は存在する

身近に精神的に追いつめられた異邦人がいたとしても、“現地人”はそれを察知しない。

さらに悪い場合、問題を訴えられても関知しない。

関知しないというのはつまり、現地の常識に照らして対処するのが当たり前であるから、それ以上の対処を行わないということである。

異邦人の存在しない国であれば、それで良かろう。

しかし現実は、日本人自らが海外へ出向くなどして異邦人を連れ帰っている。
日本にはすでに異邦人がたくさん住んでいるのだ。

そしていくら否定したくとも、“異邦人”対“現地人”という対立の図式は存在する。

異邦人にとってそれははっきりしたものであり、現地人にとってそれは曖昧ないし認識不能のものであろう。

それがたとえ異邦人からの一方的な見方であれ、そこに対立があることは確かなのである。

「対立それ自体を認めたくない、異邦人に対しても差別せず、現地人と同様に対応している」というのが、多くの現地人の“善意”なのであるが、そもそもそこに「対立」があるかどうか、「異邦人の孤立」があるかどうかという、前提とすべき認識において、現地人と異邦人とでは正反対なのである。

つまりこれこそが、対立の根本というべきものなのだ。


3.窮鼠猫を噛む

現地人の目には見えぬ、こうした対立や孤立の存在は、日本人の皆が学び、認めるようにならなければならない。

異邦人を身近に住まわすことは、すでに当たり前となってしまったのであるから、対立や孤立を認めて、日本人の共通認識としなければならない。
その共通認識こそが、何よりもまず、異邦人を受け入れる以前の前提とならなければならない。

ではその前提がないところに異邦人を受け入れればどうなるか、簡単に説明すれば以下のようなことである。

異邦人は、未経験の精神的トラブルに遭遇し、現地人との対立を感じ、孤立し、被害妄想に支配される。
そのようにしてどこまでも精神的に追いつめられてゆく。

しかし現地人の誰にも、異邦人を追いつめたという意識はない。

「なにをそんなに怒っているの」「なにをそんなに悲しむの」「だれをそんなに恨みたいの」…さっぱりわからない。
わからないから「そんなに悪い人はいないよ」「普通にしてればいいんだよ」としか言えない。
とにかく現地人としては対立も孤立も認めることができない。

「一方的に」追いつめられたと思い込んでいる異邦人の被害妄想はますます膨らむ方向にある。
それを「妄想だ」としか見ることができない現地人との間に、対立はますます深まる。

際限なく膨らむ妄想は、異邦人を鼠のように追いつめる。
精神に異常を来すケースも少なくないことだろう。

追いつめられた鼠は時に凶暴になり、敵を殺そうとして暴れる。

その“敵”とは、自分を取り巻く日本人の全員となることもあろう。
060220

白梅(しらうめ)

そろそろひな人形を出すころである。
きょうでも良かったが、次の土日にしようと思う。子供たちが自分で並べることになろうが、大きな段ボール箱をいくつも、脚立にのって押入から取り出し、段を設置する仕事が待っている。

梅も見ごろで、裏庭の白梅は写真のようになっている。

このところメインのデジカメを使わずにいたため電池が切れて接写できず、いつもクレードルに乗ってスタンバイしている簡単な方のデジカメでこのような写真しか撮れなかった。
また改めて、とも思うが、きょう日曜、どうなるものかわからない。
060219

異邦人 〜滋賀県長浜市相撲町における中国人による幼稚園児惨殺事件〜

平成になってから日本に来て、日本人と結婚するなどして日本に住んでいる中国人は多い。中には中国人夫婦で日本に住んでいるケースもまた、少なくない。

もちろん、中国人ばかりではなく、ラテンアメリカから来た日系人、フィリピン人など、日本社会で生きるために不可欠の要領を、まったく知らずに住み始めてしまった外国人は、いまやどこにでも住んでいる。

日本社会が悪いと断罪するのではなく、日本社会にだって悪い面があるという指摘をすることは、日本社会のために正しいことであろうという前提で述べてみたい。

「要領を知らずに住み始めた外国人」とは、私自身も十年、生活を共にした。

はるかそれ以前にも、アメリカ人の奥さんを連れて帰国した知人がいたが、奥さんは子供を産むと単身アメリカへ帰ってしまったという小さな事件があった。

自分の家庭は大丈夫だろうと、たかをくくっていたのだが、実際には十年で破局ということになり、二人の娘を私が一人、大事に育てているのが現状である。

結論はすでに述べたようなものだが、つまり、日本社会とは、外国から来た人々には極めて異質と映ることが多く、日本社会での暮らしは非常にきついことが多い。

言いたいことが言えないのは、決して日本語能力のせいではなく、日本人でさえ言うべきは腹に据え、それを悟られぬよう気を遣いながら日々を過ごしている。

何でも言いたいことがあったら言えばいい、などと軽率なことを言ってみても、実際にはそう何でも話せるものではない。
暗黙の口封じを多重に強いられて生きるなどといったことが、日本では決して珍しくないし、腹と口とが一致しないでも、それなりに要領よく生きてゆくことが、日本に暮らす万人に求められているとも言えるだろう。

日本社会の最大の欠点とは、簡単に言えば“全体主義”なのである。

「みんなで決めたことだから」と言われれば、誰もそれに異を唱えられない。
一人別の考え、一人別の行動、一人別の表情をすれば、全体からの冷酷なる視線を浴びる。

外国はどうなんだという話のできるのは、実体験として外国で生活をし、自らが“異邦人”となった経験のある人に限られ、そのような人は、多くの場合、周囲に一人とていない。

もし私が、あるいは私のように日本社会を外からも見ることのできる日本人が、あの犯人のそばにいたら、二つの尊い幼い命が、あのように無惨な奪われ方をすることもなかったのではないかと思うと、悔しくてならない。

事件は以下のようなものであった。

昨日(平成十八年二月十七日)午前九時ごろ、滋賀県長浜市相撲町の農道で、中国から来て日本人に嫁ぎ、子供を幼稚園に通わせていた鄭永善という三十四歳の中国人女性が、当番制の送迎で自分の運転するダイハツムーブという軽乗用車に乗せていた二人の園児を、持っていた包丁で滅多刺しにして殺害した。鄭永善の子供も同乗していたが無事だった。
鄭永善は精神状態が極めて不安定だったとも伝えられており、平成十五年九月から入退院もしていたが、治療は昨年十月に自らやめてしまったという。
また、当番制で近所の園児を送迎することについては、何度か拒む姿勢を見せてきており、最近は不満も漏らさず役目を果たしていたようであるが、自分の子供が虐められているのではないかといった、ある種の被害妄想にもあったようだ。

情緒不安定になると被害妄想に走るというケースは、私も家族にその問題を抱える経験をしてきた。
そんな時には、たとえそれが妄想だとしても、味方になる誰かが必要なのである。

精神病で入院歴まである異邦人に、みんながやっているからと馴染むことを求めるのは非常に危険である。
しかしそのような危険性を知る者が、鄭永善の周囲には一人もいなかったということなのか。
いなかったのだとしたら、日本人社会の、あまりの未開さということになるのではないか。

危機管理などという言葉ばかりは聞いたことがあっても、日常生活にひっそりと入り込んでいる危機について、無関心であったり無関心を装ったりする者が多すぎるのではないか。

「(異邦人であっても)日本人と同じように接しています」ということを、善意たっぷりに話してくれる善人の典型のような日本人は多いが、「日本人と同じように接する」ことがかえって異邦人を苦しめ追いつめる場合もあるという基本的な知識を教えてくれる人はほとんどいない。

「同じ人間なんだから」などといった吐き気さえもよおす善意を見せる日本人もあろう。それは単に“見て見ぬふり”をしたいだけではないのかとさえ思いたくなる。
いったい何をもって「同じ人間」であると証明できるのか。
そしてひとたび「善意」が裏切られるや、やっぱり異邦人は駄目だという結論を出して差別に回る。

これが未開でなくてなんであろうか。
この未開さが、気狂いに刃物を持たせ、無辜の命を粗末にする結果を導いているのだ。
060218-2

敬語の誤用、その二

 店員B「千円お預かりになります。」

これは20代と思われる女性店員の発話例である。
いつも行くたびにそう言ってくれる。

昨日書いたように、「お〜になる」という言い方は、ふつう尊敬語になる。 それを知らないために彼女はこのような発話を繰り返すのか。

「〜になります」という言い方はとても便利なものである。

 「(トイレは)右の奥になります。」
 「こちらが会員証になります。」
 「合計で千円ちょうどになります。」
 「明日の開店時間は9時からになります。」

…などなど。

彼女の言わんとする言葉を分解して、

「千円(の)お預かり」「に」「なります」

…とすれば、

「千円お預かりすることになります。」

…という意味とも取れるから、「預かる」が自分の動作だという意味になり、これも文法的に間違いだとは言い切れない。
しかし問題は、これが相手の「預かる」という動作を言う尊敬語とまったく同じ形になってしまうことである。

やはりこれも避けてほしい言い方だということになろう。
060218

敬語の誤用

コンビニ店員など、若い人の敬語がおかしいといった指摘をよく見かける。

「文法が正しくない」などという発言を耳にすることもあるが、それは簡単な話ではない。
日本語のネイティブ(日本語を母語とする人)であれば、文法上の間違いというのは基本的におかさないというのが私の立場である。
その場合、私の用いる“文法”というのは、学校でやっているような国文法等ではない。
自分の意思や気持ちを相手に正確に伝えるために必要な、言葉の中でものごとを表さない部分の使い方のルール、それができていれば、「文法が正しくない」とは言えないと考える。

実際の発話例を見てみよう。

 店員A「千円、お預かりさせていただきます。」

これは20代の男性店員。
姿勢として彼は非常に腰が低く、悪く言えばぺこぺこしている印象であった。

最も一般的な謙譲表現では、

 「千円、お預かりします。」

これで十分であり、これが標準といって問題なかろう。

 「お」+「動詞連用形」+「する」=お預かりする

この語形を使うことで、その動作が自分の謙った動作であることを表し、「私が」という動作主語を必要としないものとなる。
単に「預かります」だけでは、自分と相手と、あるいは第三者と、誰の動作を言っているのかわからないことになるから主語を必要とするが、謙譲語と尊敬語でさえあれば、自分(自分の側の者)なら謙譲語、相手(相手の側の者)なら尊敬語ということで、日本語らしく短くてきれいな発話が可能になる。

これが尊敬語なら、

 「お」+「動詞連用形」+「に」「なる」=お預かりになる
 「受身形」の形=預かられる

という形になる。

謙譲語にもどれば、「お預かりする」ともう一つ、「〜させていただく」という言い方があるが、その場合、

 「千円、預からせていただきます。」

となる。
これと、先にあげた「お〜する」の形を、欲張ってか両方いっぺんに使ってしまったのが店員Aの発話「千円、お預かりさせていただきます。」であるわけだ。

さてこれを文法的に間違いだと言えるのだろうか。

「お預かりする」あるいは「預からせていただく」のどちらか一方だけで十分なところ、その両方を組み合わせて発話することができてしまった。できてしまうがゆえに、両方やればより謙った表現と感じられる。
店員Aはそう思ったのかもしれない。

大事なことは、謙るという目的を達成できるかどうかであるから、発話した店員Aがそれで満足し、そう言われた客がそれで店員Aの態度を良しと見れば、どこにも問題はないということになろう。

しかし、すべての客が良しと受け取ってくれるかどうかはわからない。
なにやら聞き慣れない言葉を言ってるぞと、訝る向きもあろう。

実際私自身も、ちょっとこれは変だ、謙譲のやりすぎだと感じたから、彼にそう指摘してやるべきだったのかもしれない。
060217

あと0.8度で夏日。

画像をクリックしていただくと、別ウインドウで実寸画像を開く。JWAからいただいた、本日午後1時の気温を表示した画像である。
静岡市は「24.2度」とある。これは沖縄県那覇市と同じ気温であったらしい。
あとわずかで夏日であった。昼休みにビートをオープンにして移動したが、日陰になる助手席の床、厚手のカーペットの上に置いた温度計は28度をさしていた。うちのビートにはエアコンがついていないので汗をかいた。きょうはどの車も冷房を効かせて走っていたはずである。

以下追記19:05pm
気象庁によると、本日の静岡市の最高気温は24.6度であったらしい。あと0.4度で夏日だったわけだが、つまりまだ夏日は観測されていないということになる。
明日は今日より10度ばかり下がって、最高気温が15度ぐらいと出ている。
060215-2

補足として、共存すべき宗教のこと。

信ずる者と信じぬ者とをはっきりと区別し、言ってはならぬタブーがある。
それが宗教であることに間違いはないのであるが、当の信者というものは、信ずることで救われる、つまり精神に平安が保たれるのであるから、外の世界との対立という側面だけで宗教を断ずることはできまい。

要するに、外の世界との断絶や対立をいかに予防するかなのである。
それが世界の宗教指導者に最も求められることなのである。

断絶や対立をまったく意に介せず、ただ我らが信仰こそが唯一正しく、他はみな間違っているなどとやれば、当然のこととして戦争が避けられない。

うちの母ちゃんだけが正しく美しく、隣近所の母ちゃんはみな醜くて間違っているなどとやる愚か者が存在せぬことに学び、世界の宗教指導者をはじめとする全人類が、異教や異文化への中傷や弾圧といった愚かな言動の一切を慎んでこそ、世界に平和は訪れるというものなのである。

どんな宗教であれ文化であれ、他の存在を否定せぬ限りにおいて共存は許されている。
共存あっての社会であり、世界なのである。
060215

タブーなしには成り立たない、それが宗教というもの。しかも突っ込みどころは満載です。

例えば、
ブッダが悟りを開いたというのは、単に頭がいっちゃったからだ。
とか、
聖母マリアの処女懐胎って要するにだれが父親かばらせなかっただけだろう。
とか、
モーゼの十戒に「盗むなかれ」「殺すなかれ」ってあるのは、要するにユダヤ人が盗人、人殺しばっかりだったからだろう。
とかいったことを言ってはいけないのである。
言ったら大変なことになるのである。

信者の人口が億単位ともなってくると、ついうっかりであっても、揶揄したり風刺したりすることはできなくなってくる。
もっとも、寛容を説く宗教だったら、どう馬鹿にされようが笑って受け流すようにしてもらいたいものではあるが、信者が寛容とは限らないのである。

宗教とは、かくも恐ろしいものなのである。
気をつけたいものである。
060213

“車”と似て非なる乗物

軽自動車とはそもそも「自動車」未満の乗物でなければならなかったはずだ。
自動車未満と見なされるからこその軽自動車税であり、高速道路通行料の安さなのだ。

軽は自動車未満だからといって卑屈に考えたり蔑んだりする向きもあるかもしれないが、軽は軽、自動車未満であるところに独自のジャンルを構えた自動車とは似て非なる乗物なのだと考えたら良いのではないかと思う。

その点でビートは、はっきりしていると思う。
最近の軽がどんどん立派になるのを見ていると、軽というジャンルからなんとかして抜け出して、立派な自動車として一人前になろうという姿勢が見えるのだが、ビートのころまでの軽には、軽としていかにあるべきかという姿勢がまだあったのではないかと思う。

だから本田技研さんがビートを「スポーツカー」と呼ばなかったのも、やはり正しかったのではないだろうか。

「軽だって立派な車なんだ!」と考えれば考えるほど、軽でしかない軽がみじめになってくるし、「軽だけどスポーツカーなんだ!」と主張すれば、時代の先端を走るようなパワフルな車たちから置いてけぼりを食うばかり。

それだったら“車”だなどとは考えず、車でもない、バイクでもない、これはどこまでいっても軽であって軽でしかないのだと考えたら、軽がますます特別で楽しい乗物になってくるのではないかと思う。

そんな意味でも、ビートはやっぱり特別な乗物ではないだろうか。

軽を否定するドライバーとは、自転車を否定するバイク乗りのようなもの。
自転車には自転車の、バイクでは決して味わえない醍醐味があるように、軽には軽の、“車”では決して味わえない醍醐味がある。

ビートには特にそれがある。そう断言できると思う。
ビートのページに同じ文を掲載しています)
060210

絶望的対立を煽った営利事業のこと

デンマークやフランスのメディアが、イスラム教のマホメット(ムハンマド)を漫画にしたので、各地で過激な抗議行動が巻き起こるなど、世界で大変な問題になっている。アフガンの旧政権ターリバンでは、係るメディアの関係者を殺害した英雄に二億円相当の金塊を報酬として与えると言っているらしい。

西欧でも信教の自由は保障されているから、決してイスラム教を否定するような内容であったはずはないのだが、神聖なる教祖を漫画にするという、つまり偶像化すること自体がイスラム教では許されていないので、それをされたら怒りたくなるのが熱心なイスラム原理主義者なのだろうということで想像はできる。

しかし、言論の自由を尊ぶ社会では、特定の個人や団体を誹謗しない限りにおいて何でも言ってよい、書いてよいのが当たり前ともなっている。
つまり、今回デンマーク・フランスのメディアのおこなったことが、特定の個人や団体の誹謗になるのかどうかという問題なのであろうが、特定の団体であるイスラム原理主義者さんたち自身にとってみれば、それは明らかな誹謗だということになり、漫画を出した側にとってみれば、そんなつもりは毛頭ないということになるのだろう。
これでは最初から平行線で、どこまでいっても対立を続けるほかなくなってしまう。

『悪魔の詩』を書いて1989年にイランのホメイニ氏から死刑宣告を受けたサルマン・ラシディさんは、いまだにイギリス国内で二十四時間護衛付きの生活をしていると聞いたが、今回の漫画に関わった人々も、彼と同じ暮らしを始めることになったのだろうと思われる。
彼らが普通の日常生活に戻るためには、彼らを殺すことが正義と信じる無数のイスラム原理主義者を逮捕監禁するなり殺害するなりしないとならない。
それほどまでに絶望的な対立が生じてしまったというのが、何はおいても唯一最大の事実だということになるのではないか。

この事実から私個人の結論をいえば、対立改善の道を探るべきなのは、圧倒的多数のイスラム原理主義者ではなく、ごく少数の漫画を描いた側であろうということである。
そうした漫画を描けば、新聞でも雑誌でも、興味本位で買いたいと思う読者がどっと増えるのはわかりきっている。
つまり商売になるからやるのである。つまりこれは、言論の自由を主張するためという大義以前に、お金のためという客観的観察が成り立ってしまう。

一方で、教祖の漫画化は、絶対権威である宗教とその教祖を貶めるものであって、放置すれば教義の存続さえ危うい。
イスラム原理主義は国際社会にあって犯罪者集団であるという見方もあろうが、原理主義者が全員テロリストだというわけでもあるまいし、原理主義者ではない穏健派のムスリムにとっても同じように不快な漫画であったということであるなら、原理主義に特定せずイスラム教一般を貶める「言論」であったということになり、むしろそれをきっかけに穏健派から過激派に転じるムスリムも間違いなく増える(逆はありえまい)だろうから、ますます漫画に関わった側にこそ非があるということになる。

早い話が、漫画は間違いなく絶望的対立を煽ったのである。こんな対立を煽ってまで発行するほどの漫画であったとは到底思えないのである。
060209

GLOBESCAN社発表、世界の国々好き嫌い調査

GLOBESCANという調査会社のサイトで、米国メリーランド大学とBBCワールドサービスの主導で行った最新の調査結果が発表された。
世界三十三か国の人々、39,435人が、世界の主要な国々についてどう見ているかという調査である。

アンケートに答えた三十三か国とは以下の通り…

アングロアメリカ(二か国):米国、カナダ
ラテンアメリカ(三か国):メキシコ、アルゼンチン、ブラジル
欧州(八か国):スペイン、ポーランド、ロシア、フィンランド、イギリス、ドイツ、イタリア、フランス
中東(四か国):イラン、イラク、サウジアラビア、トルコ
アフリカ(八か国):ナイジェリア、ケニヤ、セネガル、タンザニア、ガーナ、コンゴ、南アフリカ、ジンバブウェ
アジア大洋州(八か国):インドネシア、フィリピン、アフガニスタン、オーストラリア、スリランカ、インド、韓国、中国

主要な国々とされているのは以下の九か国…

イラン、米国、中国、ロシア、フランス、日本、ヨーロッパ、イギリス、インド

調査の質問は、これらの国が世界に及ぼす影響について、三十三か国の人々はどう見ているか?ということらしい。「影響」などと難しい言葉を遣ってはいるが、要するに人間は好き嫌いが基本であるから、これは単に“好き嫌い調査”と見るべきものだろう。
解答は二者択一となっており、「概ね肯定的に見ている」と「概ね否定的に見ている」のどちらかとなっている。

そしてその結果だが、日本は“ヨーロッパ”を除いて、最も肯定的に見られているということらしい。
しかも、たった二か国だけを除いて、つまり三十三か国中三十一か国が肯定的に見てくれているというのだ。

ではその日本を否定的に見ているという二か国はどこかといえば、日本人なら誰でも想像できる通り、お隣の中国と韓国である。

アジア大洋州地域八か国の数字をあげておこう。

インドネシア:肯定的85%−否定的8%
フィリピン:肯定的79%−否定的13%
アフガニスタン:肯定的65%−否定的11%
オーストラリア:肯定的60%−否定的22%
スリランカ:肯定的50%−否定的4%
インド:肯定的48%−否定的13%
韓国:肯定的44%−否定的54%
中国:肯定的16%−否定的71%

韓国が割と拮抗しているのに対し、中国の嫌日はひどい結果になっているが、これというのもファシズム独裁政権の安泰をはかるために、敢えて国策として無理やり敵を想定する必要から反日を煽ってきたという、その涙ぐましい努力のたまものであろう。

かつて中国で山口百恵や谷村新司などがもてはやされたころには、どんなアンケート結果が残っているのか非常に知りたいところである。
060204

トロポミオシンアレルギー

トロポミオシンという難しい名前のアレルゲンがあるのだそうだ。
エビやカニなどの甲殻類に含まれるのだそうで、エビやカニを食べてアレルギー症状が出るのはそのせいなのだという。

一九八二年、二十二歳の夏、美大の夏休みを利用して自転車旅行をした。
ロンドンのヒースロー空港に着いてすぐ、預けてあった自転車を組み立てて走り出した。二か月足らずの旅行だったが、アルバイトで貯めて持ってきた二十万円ほどの金で、ユースホステルや野宿を利用してケチケチと食いつないだ。

イギリスはロンドンからウェールズのカーディフまで、オランダに渡って国を一周し、ベルギーを南下した。

最後は初めてのパリだったが、そこでもドミトリーの安宿でいろんな国から来た気さくな仲間たちと、さも旧知の仲のように一週間ほどを過ごした。
ヨーロッパ各地からはもちろん、フランス系のアルジェリア人、インド人、エジプト人、アメリカ人、ニュージーランド人、香港人などがいて、毎日退屈することはなかった。

しかし金はなかったため食べるものは最低限で、バゲットというあの細長いパンが唯一のご馳走で、あとは水とか、一本二百円ほどの安いワインなどを飲んでいた。

帰りの飛行機は行きと同じ南回り便だったが、飛行機に乗って機内食でましなものが食べられるのが楽しみだった。
スチュワーデスが来て、チキンとエビとどっちにするかと聞くので、より贅沢そうなエビを頼んだ。
味はともかく、紛れもない本物のエビだった。団子のように円くなった大振りのやつだったが、それが十尾ぐらいあっただろうか。貪るように食べた。

食べてしばらくすると具合が悪くなった。
寒気がして、熱も出ていたと思う。首や顔が腫れあがり、鼻が詰まり、気管支が詰まり、呼吸も大変だった。ブルブル震えながら、ただじっとしていた。
だが幸いにも二時間ほどで快復した。

自分の甲殻類アレルギーはこうして始まり、以来エビやカニを食べることができなくなった。
高校の修学旅行で北海道へ行ったとき、札幌はすすき野の有名な店でタラバガニを食べたので、カニについてはさほど未練がないのだが、伊勢エビやロブスターは、まだ食べたことがない。いつか食べてみたいと思っていたが、かなうことなく人生を終えるのかもしれない。

私のアレルギーのせいで、うちの子供たちも小さいころからエビやカニを食べる機会が極めて少ない。そのせいか、特に自分から食べたいということもないのだが、先日、清水のバイキングレストランに行ったときには大きなカニが食べ放題だったので、二人とも少しずつ食べていた。食べ慣れないので殻が硬くて手が痛いなどと文句を言っていた。

そのトロポミオシンとかいう物質を、調理して出すまでに無害にすることはできないものだろうか。もしそんなことが可能になれば、子供たちと一緒にうまいエビ・カニが食べられるのだが。
060203

しょうがくせい

小学二年生の時、翌日の何かの準備のため数人の級友で放課後居残って何かやっていた。何をやっていたのかはさっぱり記憶にない。
そこへ担任の若い女の先生が、みんなを労おうと蜜団子を買ってきてくれた。

一串に四つぐらいの団子だったと思うが、一人一串はないので、確か一人一つずつということだったと思うが、みんなでそれを回して食べた。
ところが一人、ずるいやつがいて、敬三君という子だったが、自分の分を食べたあと、串に残る最後の団子が纏っていた艶やかなる蜜を、べろんと全部舐めてしまった。
それを食べるのは淑子さんという目の大きな女の子だったが、人が舐めたものだからもう食べられないとあきらめるか泣くかするかと思ったら、厭そうな顔こそしたが、しっかり残りを食べてしまった。

あのころだって蜜団子といえばかなり上等のおやつだったから、そうしょっちゅう食べられるものではなかった。たとえ蜜が敵に舐め取られようとも根性で食べきった淑子さんは偉かった。
060202

ボク、じょーもん坊や。
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掲示板の変更です。
最近ずっと海外からの変てこなプログラムに荒らされまして、当サーバー内に設置していた「雑談版」と「ゲストブック」が見苦しいことになっておりました。
そこで本日、誠に勝手ながら、両ページを廃止し、新たに"BBS"を開設いたしました。
060216
朝の書き込みです。天気予報では本日の気温は23〜25度となってます。昨日は21度だったそうです。初の夏日が2月15日となりますかどうか。
060215
静岡競輪場で開設記念競輪をやってます。あす土曜が準決勝戦、あさって日曜が決勝戦。地元選手もなかなかがんばってますので、お近くの皆さん、是非お越しください。けっこう面白いんだこれが。
静岡新聞をお読みの皆さんは、あすの朝刊に無料の予想記事が掲載されます。小田競という専門紙の全面的なご協力で実現したもので、今回が3回目。初めは昨年の日本選手権競輪、2回目が昨年の竹千代カップファイナルでした。
第9レースから最終11レースまでの専門紙記者さんによる詳しい予想記事が無料で読めるんですよ〜。是非ご覧ください。
060210
うっかり二月です。
正月三十日の気温のことを忘れぬよう書いておきますが、静岡市は清水区で22度。旧静岡市の方でも21度を記録したようです。
静岡市には時折こういうことがありまして、フェーン現象というものなんですね。詳しいことは難しいのでよくわかりません。
060202
じゃじゃーん! 静岡市は清水区で気温が20度に達したそうです。もうこのまんま、冷えないでもらいたいもんです。
060130
12月はひどく寒かったんですが、正月は風が吹きません。天気予報では「西の風やや強く」などと毎日出ておりますが、ちっとも吹かないんです。どうなってるんでしょうね。不思議です。気温もぼちぼち上がってきているようですが、このまま暖かくなってもらいたいものです。
060126
平成18年、2006年となりました。
あけましておめでとうございます。皆様方には平和な年となりますようお祈り申し上げます。
060101
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