jomon.sumpu.net from Suruga, Japan
  静岡市駿河区から日本語・パングラム・車・等々の内容をお届けする『縄文ネット』. デザイナーで日本語教師の興津諦が個人運営.

台湾は中国だというなら日米の敵である

中国など東アジアの近隣諸国との関係を強化して、アメリカやヨーロッパの方ばかり向いているのはやめようではないか、などという左派の議論があるが、「中国など」の「中国」という国は、独裁政権であり、周辺への侵略をやめぬ人権弾圧国家であるから、いくら近くにあるからといって、人道的にも政治的にも、中国と価値観を共有することは全くできぬ相談である。

それでも中国と仲良くすべきだというのは、要するに日本が欧米などと共有している民主主義、自由主義を尊いものとはせず、中国などの専制政治を擁護し肯定しようとする姿勢以外のなにものでもないのだから、日本国内にそうした考え方をする向きがあることは大いに悲しむべきことである。日本共産党や社民党といった政党が大事にしようとしているのは、この民主主義でも自由主義でもなく、人権を弾圧し、人命を軽視し、周辺諸国に脅威を与え続けるだけという国家のあり方だということなのであるから、「憲法改悪」だの「市民の声」だのといったウソデタラメに騙されてはいけない。

台湾は、1996年より大統領(総統)を国民が直接選挙で選出するようになるなど、民主化が徐々に進んできており、それ以前の国民党一党独裁の専制政治の歴史は一応の幕を閉じたことになっている。

現在は、民主進歩党といういわゆる「独立派」が与党となっているが、この「独立」というのは「中国(中華民国)」からの独立であり、その独立に反対しているのが、台湾国内にある野党で、かつて独裁政治をおこなってきた国民党を中心とする勢力である。

もちろん、もう一つの「中国(中華人民共和国)」も台湾の「独立」には反対している。 つまり、台湾の国内にあって今まで台湾を支配してきた「中国」と、台湾を今まで一度たりとも支配したことのない大陸の「中国」という、かつて内戦を戦ってきた二つの「中国」が、台湾国内にある「独立派」の敵に回っているわけだ。

敵の敵は友ということで、台湾では今、大陸の中国と対立するのをやめて、むしろ仲良くしたいという野党が、ここへきて再び支持されるようになってきているらしい。
大陸中国に進出している台湾企業は大変な数で、大陸に住んでいる台湾人も多いから、大陸中国と対立したところで何の得もないというのが、支持者の考え方である。

しかし台湾の与党民主進歩党をはじめとする「独立派」勢力は、敵は「中国」であると認識している。その「中国」とは、台湾国内にある「中華民国」の「中国」と、大陸にある「中華人民共和国」の「中国」である。

ではアメリカは、独立派と中国派と、どっちを応援しているのかというと、台湾国内にある「中国」が、大陸にある「中国」とは相容れぬと、はっきり一線を画して、あくまでも自由主義陣営であるという意思表示を続ける限りにおいて、台湾国内にある「中国」を応援しましょうということになっている。

台湾国内にある「中国」がもし、専制政治を続ける大陸の「中国」と仲良くしようと言うのであれば、アメリカはどちらの「中国」をも応援しない。

それには台湾関係法という法律もあって、大陸の中国が台湾に武力で侵略してくるようなことがあれば、米軍は黙ってはいませんよという決まりになっているのだが、台湾がもし大陸の「中国」と一つになりたいというのであれば、「平和統一」ということになって、アメリカの出る幕もなく、一つになった「中国」は、その後アメリカと敵対することになってくる。

台湾の議会では今、大陸の中国から自国を守るための軍備にかかる予算のことで、与野党が激しく対立しており、独立派は当然、アメリカからたくさんの武器を購入しようと考え、中国派は中国どうし仲良くするんだから武器はそんなに必要ないとしている。

「平和的」に見えるのは、「武器はそんなに要らない」とする「中国派」であるから、これを日本の共産党や社民党が見たら、きっと「中国派」を応援することだろう。「平和!」「平和!」「平和!」と馬鹿の一つ覚えに唱えてきた馬鹿政党であるから、「平和」と聞けば「正しい」という条件反射をするしか能がないからだ。

しかし台湾独立派が「もっとアメリカから武器を購入しよう」と言っているのは、「お前たち、言うことを聞かないと平和な台湾を武力で侵略してやるぞ!」と脅し続ける大陸の中国には決して屈服したくないと考えているからであって、台湾の独立派が武器をもって中国大陸に侵攻しようとか、周辺諸国に領土を拡げようとか、そんな無益なことはこれっぽっちも考えたことはないのである。あくまでも今あるこの平和を守るため、大陸の「中国」とはっきり一線を画すために、自分たちの国は自分たちの軍隊で守り、さらに大陸「中国」の武力侵攻を許さないと言ってくれるアメリカとの軍事的な同盟関係を保ちたいとしているだけなのである。

これは日本で今、憲法9条を改正して、平和を守るために、自国でも正常な防衛機能を持ちましょうと考えるのが当たり前になってきたこととよく似ている。

自国を外敵から防衛するためには、どこの国でも当たり前な軍隊を持つことになるわけであるが、軍隊と聞くと条件反射で「戦争反対!」と唱える社民党みたいな反日集団がいる。「戦争反対!」だったらなぜ中国に言わないのか。核保有を目指す北朝鮮に言わないのか。そういった疑問を持つのが正常な人間であるはずだが、彼ら反日集団は、中国や北朝鮮などの軍国主義国家が軍隊をもって東アジアの平和を脅かすことにだけは大いに肯定的で、軍国主義、拡張主義などとっくに卒業している日本が、アメリカ人の子弟たちの命をもって自分の国と家族を守ってもらっていることには無頓着な上で、在日米軍には出ていけの、日本は軍隊を持ってはいけないのと、要するに日本という国をなくしてしまいたいがための破壊思想を党是としているのである。

台湾の野党、国民党・親民党などの「中国派」というのも、同じように「台湾」なんて要らないという立場である。

その立場に立つということは、日本やアメリカと政治的にも人道的にも対立して東アジアの平和を脅かし続ける国、つまり「中国」の側に回るということであって、それはつまり日本などの自由主義のアジア諸国や欧米諸国の敵に回るということなのである。

台湾の大統領選挙は、2000年、2004年とおこなわれ、今のところ「独立派」が与党を続けているが、次の2008年、このまま台湾人が「反中国」を保ち続けられるかどうかは、まだわからない。
もしかすると「反独立」の台湾人が多くなって、日本やアメリカとの対立関係に落ちてしまう可能性だってある。

どうかそうはならないでもらいたいと願う。
050930

イチローが台湾最大の肖像権侵害訴訟を起こす

米大リーグ、シアトルマリナーズのイチロー選手と言えば、尊敬しない日本人は恐らくひとりとていないだろうし、アメリカでもすでに野球史に残る偉大な選手である。また台湾でもその知名度は極めて高く、知らない人はないのだろう。

そのイチロー選手の肖像権が台湾で侵害され、2年前から雑誌広告、バス広告、店頭広告などに肖像写真を無断使用されてきたということで、イチロー選手の代理人である岡田良樹氏が昨日台湾入りし、台湾の代理人である亜太彩虹社長趙佩利氏を伴い、台北地方裁判所に3300万台湾ドルの損害賠償金と謝罪を求めて訴訟を起こした。台湾における肖像権侵害訴訟額としては過去最高だという。

訴えられたのは、台湾のスポーツシューズメーカー創信。イチロー選手側は2年間にわたって無断使用の中止を求めてきたが聞き入れられなかったということらしい。

このニュースが昨日台湾で報道され、今朝方から日本のメディアでも報道された。
台北で肖像権を侵害した雑誌広告を見せる岡田良樹氏の写真 (台湾「聯合報」の報道写真)
聯合報によれば、代理人岡田氏は、イチロー選手が1999年に921地震(台湾大震災)のチャリティーで台湾を訪れた際から台湾に対する印象が非常に良かったためこの訴訟にあたっても慎み深くおこなってくれるよう代理人に依頼していると語ったそうだ。聯合報では、今回訴えられた肖像権の侵害行為は「台湾の恥である」としている。

ニュースソース
中時電子報
TVBS
聯合報
050929

なぜ生きる

民放テレビの番組でfortune tellerのH女史が高校生に説教をしていた。
なぜ生きるのか?と問いかける女史に対し、高校生が「しあわせになるため」と答えると、「わかってない!」と切り捨てた。
彼女自身、自分の言いたいことが自分で理解できていないことがはっきりと見て取れた。
つまりこういうことである。

「しあわせになるため」というのは、正しくもあり、正しくもない。
というのはそれがそもそも、「しあわせ」の定義によって決まるためである。

自分が「ハッピーな気分」でいる精神状態を指して「しあわせ」というのであれば間違いである。
しあわせとは、自分ひとりにあるものでは決してないからだ。

しあわせとは、人と、人々と、そして自分と、という共存関係があった上で、自分の生きる場所がある、自分が生きることを許されている、自分がまわりに必要とされている、といった生き方ができているかどうかの問題なのである。

誰でも言葉をもっているのは、言葉を受けたり伝えたりするためであって、自分だけのためでは断じてない。自分だけでよければ、言葉は不要なのである。考えることも、思うことも、感じることも、全てはみんなと共に生きるためであって、自分ひとりのためではない。利己主義者を突き詰めれば、彼には精神も、言語も必要ない。そこには当然、しあわせもない。

誰かが必要としてくれる。「誰か」は「誰かと誰か」になり、また「みんな」になる。
ひとりでも多くの人が自分を必要としてくれること、それがすなわちしあわせの正体なのである。

そうした意味で「しあわせになるため」であるのなら、それが生きる目的であると言ってなんら間違いではない。
050927

中国経済の現実

中国の経済成長は日本がかつて成し遂げたものと同じであって、人民元の切り上げが行われたとしても、かつての日本が乗り越えたように、中国もきっと乗り越えられる、という観測があるようだ。

しかし日本の成長とは、日本人にしか作れないものを日本人が作り続けてきたからではなかったか。生産の能力、創造性、あるいは製品の完成度において、欧米の工業製品を凌駕するものを作り続けてきたからではなかったのか。

それに対して中国製品というのはどうだろう。

貧困にあえぐ十億からの人民があり、中国国内のごく一部において、先進工業国からそっくり借りてきた技術によって工場を建設し、そこにいくらでも代わりはいるからと、あり得ないような低賃金で工員などを雇用する、そうすることによってはじめて得られる価格競争力によってのみ、中国経済は成り立っているにすぎない。つまりこうした条件のいずれか一端がひとたび破綻すれば、代わりはいくらでもある他の工業国へとお金の流れは変わってゆくのではないかということである。

中国へ行ってみればわかる、中国へ行けばいかに成長しているか、人民がいかに豊かになってきているかが一目瞭然である、というような意見もある。それはそうだろう。なにしろ中国の貧困というものは、世界的に見てもきわめて深刻なものであり続けてきたのだ。ところがごく一部の階層で購買力が著しく向上し、それに伴ってありとあらゆる商売が好況にわいているわけだ。しかしそのような光景は、中国経済の今後を楽観するに足る証拠とは決してなり得ない。

中国の未来を楽観する人は今でもなかなかの発言力をもち、迷わず中国へ投資しましょうという宣伝を続けているが、どうしてそう楽観的なのかと考えてみれば、彼らにはこれまでの経済成長において、中国でこれでもかとおいしい思いをしてきたという経緯が必ずあるためであろう。

いい思いをしてきたという濃密なる経験があれば、これからもいい思いができると「楽観」したくなるのが人情というものだ。

しかし、失敗して痛い目にあってきた経験があれば、誰でも懐疑的になり、用心深くなる。

人間の価値判断の基準というものは常に自分の経験の上に立つものである。

その経験が、さかのぼって日本の高度経済成長においてもおいしい思いをしてきたという人であれば、中国でも同じことがふたたび起こるに違いないと観測したとして不思議ではない。

どこへ投資しようかと考えあぐねる人々に、どうぞ成長果てぬ中国へという助言を行うことはけっこうであるが、それがいっとき中国のためにはなっても、投資する人のためになるという保証はどこにもないのである。

中国の競争力は、低価格にこそあるのであって、製品そのものは全て、どこの国でも生産可能なものばかりである。中国でなければならないというような製品が中国から産出されたという事実がもしどこかにあるのなら是非とも見せていただきたいものであるが、そんなものはひとつとてない。それが事実であり、中国経済の現実なのである。

華やかな成長の陰には悲惨な現実というものもつきものであるが、日本の場合にはそれは交通戦争であり公害問題であり食糧自給率の低下であるなどしてきた。

そうした問題も決して看過できるものでないことは確かであるが、果たして中国の陰はいかがなものか。

まず中国人社会は法治社会ですらない。なにか事が起こったとしても場当たり的、あるいは当局の絶対権力によって無理な解決がはかられるばかりであって、反省もなければ、問題解決に費やした智慧の蓄積というものも全く行われない。

インフラ整備も極度に遅れているか、行われたとしても極めて乱暴なものでしかないから、ちょっとした自然災害でも日本などとは桁違いの犠牲者を出す。

ありとあらゆるトラブルが、当局に都合の悪いことはすべて隠蔽するという前提において強権発動的に対処されるから、経済的に豊かになりつつある一部階層や、彼ら階層を目の当たりにしてきた貧困層には不満が限りなく蓄積される。

事実、日本では近世以前にしかなかったような暴動が今まさに頻発しており、まだまだこれから増え続ける傾向にある。しかもそうした、当局に都合の悪い情報は、外部に漏出しないように細心の注意が払われているから、中国への投資をやってみようなどと考える外国人には知らされていないことが多い。

悲しいかな日本のNHKなども、中国に都合の悪い報道や番組は決して放送せず、中国共産党の宣伝機関かと思うばかりに中国のごくごく限られた一面、つまり日本に友好的であるとされる現実とはかけ離れた一側面だけを見せ続けている。
050925

中国経済の今後、その希望的観測

愛知万博が明日いっぱいをもって閉幕する。
4月に子供を連れて行ったころはまだ空いていたと言うべきで、三連休の二日目だった今月18日には28万人という入場者数を記録しているから、恐らく今日や明日は30万人の大台に乗せるか、入場制限をきつくするとかいうことになるのではないだろうか。
次の万博は上海だそうだ。

経済成長が著しい中国のことを考える。
13年ほど前、上海から静岡に来ていた就学生たちは、いかにも貧しい国から来ましたというふうであったが、静岡と上海という都市での比較であれば、経済格差はかなり縮まってきているのではないだろうか。昔は、大都会上海から来た都会っ子であっても、静岡の豊かさに気圧されているようなところもあったが、今はきっと違うことだろう。

中国といっても広いから、一方では沿岸部と内陸部、都市部と農村部との経済格差がますます広がっている。
貧富の格差は大きくなる一方で、不満をもった人々も増えつつあり、各地で暴動も頻発しているという。

そもそも中国という国は、法治国家とはいいきれない面が強い。ものごとの手続きが、国中で通ずるルールに則って運ぶとは限らず、人対人の関係で、穏やかであるか和やかであるかすればスムーズに運び、赤の他人であったり顔が気にくわなかったりすれば何事も進捗しないか殺し合いになるかというようなところがあるのだ。
人間らしくて良いではないかと暢気に考える向きもあるかもしれないが、国際社会ではまったく通用しない中国独自の、というよりも封建社会的な習わしであるから、これがある限りは中国が先進国の仲間入りを果たすなど不可能であろう。

実際、中国人社会が封建的なところから脱する可能性というのは、無に等しいのではないかと思う。
日本やアメリカで活躍している中国人というのはもちろんたくさんいるわけであるが、彼らとてもひとたび中国人社会に戻れば、日本やアメリカでは理解されない中国独自の、前時代の価値観に還るはずである。そこには人を超えたルールなど存在しないから、公のルールなどはないに等しく、公衆道徳もない。

上海の万博よりも先に、北京ではオリンピックが開催されるのだという。
世界中から嫌われる中国で、世界中が嫌悪する中国人社会によって運営されるそのオリンピックが成功するとは到底想像できないから、日本や欧米各国は、できることならモスクワオリンピックのときのように、難癖をつけてボイコットするのが望ましいと私などは考える。
そうした方がトラブルが未然に防げるというものだからだ。

目下の中国に待ち受ける最大の危機は、人民元の切り上げであろうか。
経済はまったくわからないので勘だけでいい加減なことをいえば、中国経済を支えている最大の原動力というのは、矛盾であり、無理である。
例えば、中国人に物作りの才能はそもそもないということ。ルールのない封建社会であり、近代的な発想というものもないから、厳しいルールに則って生産されてくる高品質な中国製品がこれだけ世界を席巻しているというのは本来あり得ないことなのである。そのあり得ないことが起きていて、中国経済は成長を続けている。
また、あり得ないような安い労働力が巨万の富を生み出しているという構造も大きな矛盾であろう。
さらに根本的なところをいえば、チベットや東トルキスタンが侵略されて非道な人権弾圧が続いていることなどもある。もうそういう時代はとっくに終わったのだといってもまったく通用しないのが中国であるから、独裁政権も存続しているし、人民への情報もすべて当局によって管理されている。それに逆らえば、殺される。そういった、絶望的な矛盾の上に成り立っている無理、それが中国である。

中国人の立場からしたら、それはもちろん中国が日本と肩を並べると信じたいことであろうから、こうした矛盾と無理には一切目を瞑ってしまう。中国の成長は実力だと力説する。
しかしどうだろうか。ここまで経済成長していながら、大半が貧困に苦しんだままで生活水準がまったく改善されていないという信じられないような現実があるし、生産に従事する労働者の賃金が上げられたという話も聞かない。
そうしたコスト据え置きの政策の上に、今まで行われてきた人民元の固定レートが中国製品の価格における競争力を強大なものにしてきたわけである。

人民元は、今年になって初めて、2%とわずかな切り上げが行われたが、世界中が安すぎる中国製品で今後ますます迷惑してくるだろうから、いずれ必然的に10%、20%と、かつての円が辿った道をゆかざるを得ないはずだ。賃金も当然引き上げられる。さもなければ鎮圧できない暴動が中国全土に発生して中国共産党独裁政権も崩壊するからだ。崩壊すれば内乱に陥り、広すぎる版図の分割ともなるだろう。
050924

北朝鮮による日本人拉致問題

今月14日、静岡に「拉致被害者を救うブルーリボンの会・静岡」という会が発足し、きょう、拉致被害者である横田めぐみさんのご両親ですでに全国的に有名な横田滋さん早紀江さんご夫妻が静岡市駿府町の静岡県総合社会福祉会館7階ホールにて講演された。

ご夫妻の年齢は我が両親とほとんど同じで、拉致されているめぐみさんは昭和39年生まれ、来月41歳の誕生日を迎えるが、北朝鮮人に拉致されて北朝鮮に連れて行かれたのは昭和52年、まだ13歳になったばかりの中学1年生のときであった。

そのころのめぐみさんの写真はテレビや雑誌などで何度となく拝見しているが、今年中学生になった長女を初めての制服姿で写真に撮ったときには、そのめぐみさんの姿によく似ていてはっとしたことがあった。

13歳はまだほんの子供にすぎぬ。めぐみさん拉致という国家犯罪を糾弾してゆくのは主権を侵害され自国民の生命を脅かされ人権を蹂躙された側としては、当然もつべき外交姿勢であるが、日本政府の反応は鈍かった。

また相手が北朝鮮となると、どうしたわけか、関わり合いをもちたくないという反応に出る日本国民も多く、横田さんご夫妻をはじめとする拉致被害者家族のみなさんが起こした運動に対しても、当初の反応は冷たかったという。

特に日本社会党(社民党)をはじめとする北朝鮮との国交正常化を最優先させようとする似非政治団体などは、北朝鮮までわざわざ出向いて、日本では拉致なんて騒いでますがまさか北朝鮮さんがそんなことするわけないですよねえ?などと聞いてきたらしく、そんな事実はないことを確認してきたなどと言ってきたのである。北朝鮮犯罪政権の代弁を日本人みずからが買って出たというあり得ないような現実を目の当たりにしてなお、拉致被害者家族のみなさんは、決して泣き寝入りすることなく戦い続けて来られたわけである。

静岡県内に拉致被害者は出ていないが、静岡県民も日本人である以上は積極的にこの問題の解決に向けて参加してゆく義務があろうと思う。

壇上の横田さんご夫妻の写真もこの写真同様にストロボを使用せず撮らせていただいたが、ここに掲載する許可は得ていない。

横田早紀江さんのお話のときには聞いていて涙が出たが、会場内のたくさんの人たちも多くが涙をこぼしておられたようである。
自分だけの個人的問題というのと、自分の問題でもあるおおやけの問題というのは異なる。
黙っていることが新たな被害を生む助けになるということがある。

決して黙ってはいけないことが今なお目の前にあり、それが今、さも「めでたし」であるかのようなムードに包まれようとしている。
蓮池さんご夫妻をはじめ、ごく一部の拉致被害者が解放されて日本に帰国し、さらに曽我ひとみさんの夫ジェンキンズさんと二人の娘さんが日本に定住することになるなど、拉致問題はテレビの画面ではさも進展しているかのように映るが、実際はなにも解決してなどいないのである。ただ北朝鮮に誤魔化されているだけである。

日本人がもし愚かでないのなら、この誤魔化しに騙されることなく拉致被害者の即時解放を叫び続けなければならない。そしてもちろん、これを叫び続け実地に行動する政治家こそが真の日本の政治家であると認識する義務もあろう。
050919

暇な休日

実は今夜が満月であるが、南の空は曇っていて昨日のように伊豆の山々から昇る月を見ることはできなかった。

中学の運動会が終わったので、今日と明日は何の予定もない穏やかな休日となるが、昨日の夕方ビートをいつになくきれいにしたために、また気になるところが出てくる。
以前使っていた古い幌(オープンカーなので「屋根」ではなく「幌」)の時、リアスクリーン(軟らかい材質の後ろの窓)の透明度が落ちていたので、そこだけ新しいものに交換したのだが、その後さらに大枚はたいて幌を新品に交換した時に、幌とセットでリアスクリーンもついてきたのでまた新しいものを使うことになったのだが、そのついてきたリアスクリーンは初期型のものだったらしく、材質が今ひとつ良くなかった。先にリアスクリーンのみ購入したときは、材質の改良されたものであったらしい。それで一番新しいはずのリアスクリーンがみるみる曇ってきていたので、今日は先に購入した「改良型」に付け替える作業をした。
炎天下になってしまって、大量の汗をかきながら付け替えたのだが、磨き剤をたっぷり使ってきれいにしておいたので、後方視界はかなり良くなった。

ビートのページにアップしたものと同じであるが、写真はクリックすると別ウインドウで大きな写真を開く。左右が2,816ピクセル、天地が2,112ピクセルで5,947,392(600万)画素。JPEG圧縮しているが、一昨日書いたように某一流メーカーの一眼レフデジカメよりも高品位の写真が撮れていることを確認していただけるかと思う。
今朝撮影したもので、場所は日本平山頂にある日本平美術館横の駐車場。ソアラのオーナーが続々と集まってきていて、百台規模の集会が始まる前だった。2005・ソアラフェスティバル(第5回ソアラオーナーズ全国オフ)というのだそうだ。遠くに写っている双子の山は静岡市内の龍爪山である。

今朝日本平をのぼって行ったとき、前にメルセデスのSLKというオープンのスポーツカーが頑張って走っていた。しかし、遅くてかなわなかった。軽のビート恐るべし!なのである。(これを自己満足という。)
050918

透きとおる

きょうは一日空気がよく澄んで富士山もくっきりと見えた。 浜からは伊豆の山々から昇る満月も美しかった。

写真は今夜8時ごろの月である。ズームレンズが光学4倍と大したことないために、ピクセル等倍でやっとここまでしか寄ることができなかった。伊豆から昇ってきたところを撮るべきだったが、その時はあいにくカメラを持っていなかった。

中学の運動会があり、朝から娘の弁当やら何やら忙しく、夕方にはビートを洗車した。
シュアラスターの「マンハッタンゴールド」という上等のカーワックスを初めて買って使ってみたが、今までとはやはり違うようである。そもそも値段が今まで使っていたものの3倍ぐらいするのだから違ってくれないことには困るのである。
050917

デジタルカメラの実力のこと

先週は片道3時間もかけて某学校へ行き広告の打ち合わせをしてきたのだが、学校の全景を撮った写真があるので使用できるかと聞かれ、見せてもらったところがだめだった。
撮影に使われたのは300万画素(3メガピクセル)のデジタルカメラだという。

まず、新聞の全頁広告で大きな写真を使用するには、1インチ(25.4mm)あたり200ピクセル(画素)程度は必要である。
新聞原稿の左右の幅は、モノクロ広告で385mm程度であるから、左右で約3,000ピクセルが必要だということになる。

私が所有している小さい方のデジカメは、有効画素数320万画素で、長辺最大2,048ピクセルとなっているから、300万画素だと数字からして足りないということになる。

しかし足りないのは、実は画素数だけではない。320万画素の写真データを撮影できるにはできるのだが、その写真を最大サイズで使用すると、まるで無理に引き延ばしたような、細部の荒れた画像になってしまうのである。細部まではっきりとした写真にするには、長辺の2,048ピクセルを半分の1,000ピクセル程度に縮小しないとならない。1,000ピクセルとなると、1インチあたり200ピクセルとして5インチ、つまりたったの12.7cmにしかならないのである。

それがもう一台の、大きい方のデジカメだと、有効画素数600万画素で、長辺2,816ピクセルであるから、数字的にも足りそうな計算になる。しかもこのカメラでは2,816ピクセルをそのまま使用して十分にはっきりした写真に見ることでき、さらに無理をして引き延ばしても画像はさほど荒れて見えない。

こうした違いは、撮像素子の性能やレンズの性能など、私など素人にはよくわからない技術レベルにあるのであろう。

大きい方のデジカメも、小さい方のデジカメも、ともにカシオの「エクシリム」というシリーズの機種であり、仕様書で「撮像素子」の欄を見ると、どちらも「1/1.8型正方画素原色CCD」となっていて、違うのはその画素数だけであるかのように書かれているが、実際はまったくの別物なのであろうと想像するところである。またレンズの違いはその大きさを見ただけでも決定的なものであるが、大きい方には「Canon Lens 非球面レンズを含む7群8枚」とあり、小さい方には特にうたい文句が書かれていない。

大きい方の、高性能のデジカメを購入するにあたって、各メーカー各機種の性能を比較する方法として私がとったのは、メーカーごとにアップされている「サンプルイメージ」の比較で、キャノン、ニコン、京セラ、などといった各メーカーサイトを開いていって、およそ一通りのサンプルイメージを集めてくることだが、どこのメーカーも、自分の製品が最も得意とするタイプの写真を見せてくれているから、なるべく被写体などが似たものを比較するのが一番であろうが、なかなかそううまくはいかないので、とりあえず“ピクセル等倍”にて、つまり画像を縮小することなくモニターに表示してみて、細部がどうか、微妙な階調が再現されているかどうか、などをチェックする、というやり方をとった。

簡単な方法ではあるが、同じ600万画素であっても、拡大してもきれいな写真もあれば、縮小しないと見られない写真もあり、この方法だけでもカメラの性能をかなり厳しく比較することができると考えている。

ちなみに私の大きい方のデジカメはコンパクトなタイプであるにも関わらず、某一流メーカーの一眼レフデジカメよりも高品位の写真を撮ってくれることを確認している。
また、現時点で最高の性能だと断言できそうなのは、キャノンの一眼レフの最高機種であろうと思われる。値段も最高だが、その機種ならどんなに大判のポスター写真でもいけそうだ。

ヨーロッパですばらしい光学カメラを作り続けてきた某メーカーも、最近ではデジカメを製造しているようだが、そのサイトを開き、サンプルイメージを見てがっかりした。ニュースサイトの記事中の報道写真のような、ちっぽけな画像しか見せてくれていないのである。これでは、このメーカーのデジカメを購入するのは危険だと判断せざるをえない。

さてその学校の全景写真であるが、打ち合わせに行ったときにも大きい方のデジカメを携帯していたので、それで撮らせてもらった。横位置に撮影してページ半分ぐらいの大きさの写真にするのに十分であるばかりか、縦位置に撮影して画像をさらに拡大し、頁全面に使用するのも決して無理ではない。
050916

香港ディズニーランドがオープン

一昨日の9月12日、香港にディズニーランドがオープンしたという。

東京ディズニーランドは、確か1984年ごろからやっていると記憶しているが、香港に限らず、日本の周辺諸国からの来客が多く、このテーマパークの集客力のすさまじさは今さら言うまでもないことである。香港に作ったのは、中国人に小金持ちが増えてきたので、わざわざ東京まで出掛けてくるよりも香港の方が近い感じで良いということなのであろう。

私が初めてカリフォルニアの本家ディズニーランドへ行かせてもらったのは1976年、16歳の時だったが、映画狂いだった少年にも魅力的なアトラクションが多く、アメリカ合衆国という国の、エンタテイメントにおける文化レベルの高さにとことん圧倒されたものだった。

それとほぼ同じものが日本にできて20年が経つが、基本的なアトラクションは30年前の本家でも行われていたものそのままで、それが30年経ってもいまだ色褪せることなく来客を楽しませているというのは、まさに驚異である。

その驚異のディズニーランドが、一昨日から香港人や中国人を圧倒するのだという。

ところが、どうやら出だしは順調ともいかないらしい。

食中毒も出たという。全体の面積は東京ディズニーランドの半分にも満たず、アトラクションの数も半分、従業員の態度が横柄で、来客のマナーもどうやらひどいものらしい。

東京ディズニーランドで来客が感心するのは、施設の充実もさることながら、従業員の態度の清々しさである。ゴミを拾うにしても楽しそうに拾ってくれている。いったいどういう教育をしてるんだろうかと感心を通り越してびっくりする。

香港人がどうかは私にはよくわからないが、中国人という人たちは基本的に公共道徳というものがない人が非常に多く、また汚い物を片付けることは自分のメンツにかけて拒絶するという習慣もあるから、楽しそうにゴミを拾ったり、トイレを頻繁に掃除したりなんてことは苦手中の苦手であろう。ところかまわず痰を吐く人も多いだろうから、東京ディズニーランドのように軽やかに掃除するのも至難のわざであろう。

考えれば考えるほど心配になってくる。

いつまでもきれいなままでいることは極めて想像しにくいから、行ってみたければなるべく早めに行かれるようおすすめしておきたい。
050914

国民が馬鹿か、お前が馬鹿か

小泉流の単純化された善悪二元論的な主張に対して批判的な有権者というのも決して少なくはなかったはずであるが、結果は小泉さんの圧勝。(自民党だけで6割超。公明党との連立与党で3分の2超。)

反骨精神をもつのは結構である。
しかし同じような感情が、愛知万博やヨン様ブームにもあったりする。
何を言おうとしているかといえば、例えばこういうことである。

愛知万博に行く。とんでもない人出でごった返している。真っ直ぐ歩きたいのに歩けない。きょろきょろしながら不注意な人々が向かってくるのを右へ左へとよけながら進む。そこでこう思う。

 いったいどうしてこんなに混んでるのよ! いい加減にしてほしいわ!!

「混んでいるのは、混んでいるところへやってきたお前がいるからだ。」
だいぶ昔になるが、かつてビートたけしが言った言葉である。ある意味、真理をついた指摘で面白い。

人間は身勝手な生き物であるという局面も多く、ことに相手が不特定多数の集団である場合には、相手を人間と見なさず、単に自分を取り巻く不条理な現象と見たがるところがある。現象に対峙する自分は、自分だけが人間だと思っているから腹を立てる。ハンドルを握ると人格が変わって乱暴になるなんていう未熟なドライバーがいるのも同じ現象であろう。そう、こうした感情は、人間のもつべき感情では決してなく、自分も単に反応しているだけという“現象”に過ぎないと見るべきなのである。

ヨン様ブームというのは、別にこれはヨン様に限らず、いわゆる「追っかけ」と呼ばれる通常でない精神状態の人々による異常行動の全般に関していえることである。つまり偶像というものを自分の頭の中で勝手に作り上げ、それを究極の理想として崇拝し、自分だけが最高に彼(彼女)を肯定していると思い込む妄想である。この妄想は極めて幼稚で、人生経験の絶対的な不足からきていると考えてよいだろうが、実際、社会経験の不足した主婦層が多くこうした倒錯に陥る現象が容易に確認できる。しかし彼女たちはいたって真面目に、私は誰よりも早くからファンだっただの、私は彼の着ている上着に触れたことがあるだのと言って、同類よりも頭一つ抜け出ることを「ステイタス」として誇りたがる。かわいいものではある。しかしそれが異常な心理状態、異常な衝動であることは否定できず、社会的に見れば、彼女らの考え方や行いが人間のあるべき感情によるものではなく、ひとつの特異現象として、警戒感をもってとらえる必要があろうことは、先に見た「どうしてこんなに混んでるのよ!」という感情とまったく同列ではあるまいか。

お前にとってヨン様は真の理想などではなく、お前の思い込みという反社会的現象がヨン様をあり得ない理想としているだけなのだ。

とまあ、そんな無粋なことは以後言わないことにしたいが、さて今回の選挙結果である。

小泉流儀に批判的であることは大いに結構である。しかし批判というものにも責任が伴うから、批判したいのであれば小泉の主張のどこがどう問題であるのか、整然と反論する責任が問われる。善悪二元論的な主張は疑うべきである、なんていうだけでは駄目であろう。疑った上で、ちゃんと問題を指摘する、指摘した上で、より正しいと主張できる対案を提示する、そうした対案を提示している別の政党を支持する・・・・といったことが必要なのである。

そうした「面倒な」思考は端から放棄した上で、単に大きな流れには逆らいたいというのであれば、愛知万博やヨン様ファンでしかない。世の中の流れを現象と捉え、自分だけを人間と思い込みたいのも人情ではあるが、そんな人情がやはりひとつの特異現象に過ぎないという自覚はもっておきたいものなのである。

つまり、不毛な現象非難に走るよりも、自分こそが現象に過ぎないのでは?と疑ってみましょうということである。
050912

『ポビーとディンガン』『チャーリーとチョコレート工場』

英国にはコモンウェルス(Commonwealth)といって、とてもゆるい基準での大きな「連邦」というものがある。はじめから加わったことのない米国であるとか、欧州や南米のほとんどの国々、そして日本といった、さらに重要なたくさんの国々があるわけであるが、それでも英国およびコモンウェルスには多大な影響を受けてきているところであろう。

標題の『ポビーとディンガン』は、最近書店で買ってきて自分が読み、子供にも読ませた本である。オーストラリアで書かれた子供向けの短い小説で、幼い妹の空想上の友だちを兄が本気で捜してやるというお話。長女にも空想上の友だちがかつていたので、これは共感するところもあるかもしれないと思ったのだが、まあそれなりに楽しんでくれたようである。

『チャーリーとチョコレート工場』は、きょう子供たちを連れて見てきたワーナーの映画で、原作はかなり古いものであるらしく、映画化されるのも初めてではないようだが、最新のコンピュータグラフィックもフル活用されて、あり得ない世界がポップアート的な雰囲気で親しみやすくまとめられていた。

二つのヒット作に共通しているのは、オーストラリアの作品と英国の作品、つまりいずれもコモンウェルスの中でも濃い関係にある両国から生み出された作品ということで、古いところではH・G・ウェルズであるとか、チャーリー・チャップリンであるとか、ジェームス・マシュー・バリー(ピーターパン)、ザ・ビートルズなどなど、新しいところでは筆頭がJ・K・ローリングス(ハリー・ポッター)というところであろうか、ヒットとなると世界中で天文学的売り上げとなる超大ヒットを生み出すイギリス人というのは昔から伝統的といえるほどに多いわけであるが、それにはやはりコモンウェルスの存在と、英国およびコモンウェルスから多大な文化的影響を受けてきた世界の国々が、英国的価値観にもとづいて描かれた空想世界を受け入れることに抵抗がないことにあるのではないかと考えられる。

我ら日本人もチャップリンを愛し、ピーターパンを愛し、ビートルズを大いに愛して、今もなおハリー・ポッターなどの世界に大人も子供も問わず陶酔するところである。

さてその受け入れてきている「英国的価値観」というのは何であろうか。
それはなにも決して大英帝国というかつての強大な力であるとか英国独自のキリスト教的精神云々ばかりではなくて、仮にそれらが根底にあったにせよ、ヒット作品やその作り手たちに共通するのは、作品の基本部分にあるいたってシンプルでむしろ素朴な理念なのではないかと思う。

基本的に芸術というものは、作り手がそれまで人の気付かなかった新しい視点や新しい価値観を提示して、受け入れる人が多ければ成功し、少なければ自己満足に終わるという性質のものであるが、英国から発せられたこれら大衆芸術の超大ヒット作というのもまた、常にそこに新しい価値を提示し、大きな潮流や様々な模倣を生み出し続けてきている。しかしその新しい価値というものが、難解であったり複雑であったりすることはなかったのではないか。決してマニアの喜ぶような代物ではなくて、子供にも通じることばというものが条件であり続けたのではないかと考えられるのである。

大衆芸術である映画の世界でも芸術性のみをいえば、ルイス・ブニュエル、フェデリコ・フェリーニ、サタジット・レイ、イングマル・ベルイマン、溝口健二…といった大作家がいくらでも出てくるが、いずれも超大ヒット作なんてものとはおよそ縁がない。それぞれの国で仮に超大ヒットを飛ばしていても、広く世界でどうかとなるとかなりマニアックな印象となってくる。

きょう日本では衆議院総選挙の投票日で、これから開票速報でも見ようかというところであるが、実は今回の選挙で面白いと感じたのは、単純化の競争というものが見られたところである。小泉自民は「古い自民党を壊す」「郵政民営化は改革の本丸」「イエスかノーか」という善悪二元論を徹底したような戦略で、それに気圧されたその他勢力も、なんとか単純な論法で対抗しないことには勝ち目はないという危機感をもって選挙戦を戦ったきたのではないだろうか。

いくら「善悪二元論はだめ」といったところで、誰でも好きか嫌いかですべてを判断して暮らしているのだから、突き詰めれば「二択」というところまでお膳立てをして有権者の判断をしやすくしてやらないことにはなかなか議論の意味内容は伝わらない。

英国発大衆芸術の超大ヒットというこの伝統にも、“素朴な世界の単純な主題”を“人類共通の善意”に結論付けてやるという方程式があるようで、その方程式を絶対にはずさないという前提に立った上で、新鮮な色合いを全面に押し出す、それが新しさと映る、ということなのではないだろうか。
050911

アスパラガス

裏庭にある方の鶏小屋の前にアスパラガスが植えられている。
母がたまにとってきておかずになることもあるが、こうして伸びてしまうと、根本にあるその見慣れた形を見つけるのが難しい。
実は私はまるで興味がなかったのだが、植物に非常に詳しい遠方からの来客が日本を去るときに、うちのアスパラガスの写真を撮り忘れたというので、彼女にその場所を教えてもらうという情けない思いをした。
彼女の話は全部英語で、難しい植物の名前がたくさん出て来てわからないことが多かったのだが、アスパラガスは英語でそのままアスパラガス。日本名もあって「オランダキジカクシ」「マツバウド」とも言うのだそうだが、むしろその日本語の方が日本人一般には通じず、「アスパラガス」と英語で言ってこそ通じるというのも面白い。
欧州原産ユリ科の多年草ということだが、葉はなく、細くこまかい枝が葉のように広がっている。食用にするのは土から出て来た若い茎であるわけだ。
050910

ハリケーン 神の怒りと エゴが言い

米国でのハリケーン災害は神の怒りだとアル力イ一ダが言っているそうである。
気持ちはわかる。
なにしろ彼らは米国を最大の敵だと認識している。簡単に言うと嫌いなのである。
人間の行動原理というものは、この「好き」か「嫌い」かが基本であり、「嫌い」は「すごく嫌い」、「めちゃめちゃ嫌い」、「憎らしい」、「ぶっ殺したい」・・・という具合に程度がエスカレートする。
そういう感情にもっともらしい理屈をつけて、「単なる感情」ではないと主張したがるのも、要するに小利口なつもりで生きている者たちが自分らの権威を見せたいというだけの無益なプライドが働いているだけのことであり、普通の家畜にもある「嫌い」という感情を幾層にも小理屈で包み込み飾り立てただけの代物なのである。そんなのは決して自らを高等な生き物であると証明する根拠にならない。
もっとも、それはブッシュ政権にも同じような感情がある。だた、その感情をどう表現するかによって次の選挙の行方が決まってきたりするから、多少は自制心というものが必要となるのであろうが、それとてより多数派の感情集団から支持を得んがための演技や策略であって、そうした行動のもとにはやはりエゴがある。
対立や衝突というものは、人間と人間のエゴ、あるいは集団と集団のエゴによるものであって、互いに正当性を主張して譲らないのは、いずれかが正当であるからでは決してなく、いずれもがエゴの上に立っているからに過ぎない。当事者にはまったくそれと自覚されないエゴもあるが、それは彼らの考え方を形作ってきた背景のどこかにエゴが隠れてしまっているからであって、エゴがどこにも存在しないという話ではない。
050905

超大型ハリケーン「カトリーナ」と米国社会の闇

米国ルイジアナ州などで超大型ハリケーン「カトリーナ」の被害が甚大なようである。
夥しい数の避難民が劣悪な衛生環境に置かれているという。
このような自然災害に直面した時、被害に遭った人々は、直面している災害と自分たち集団の置かれている極限状態をこそ共通の敵と認識し共に助け合うべきであろうと、おそらくはそう考えるのが普通ではなかろうかと思われる。
阪神淡路大震災では、被災した暴力団の組事務所に全国から送られてきた見舞品を、組員たちが周辺住民に分け与えたと聞いている。日本人の感覚からすれば、それももっともな行為であろうと思うのである。
しかしこのような時、アメリカで必ずといっていいほど問題になるのが、治安の悪化である。
今回もまた、自然災害と共に無法地帯が出現したらしい。
ルイジアナ州知事は、混乱に乗じて狼藉を働いた者を(治安維持に到着した兵士たちによって)射殺するという発表をしたと伝えられる。
こうした事態は、いったいどこでどう間違ってやってくるものなのか、米国社会の本質にあたる部分には、まだまだ解決し得ない闇が残されているようである。
050902

ヤモリの食事風景

9月になった。
秋の気配は8月も初旬より感じ始めていたが、いよいよ涼しくなりそうな気配も出てきた。
写真は長女が撮影したヤモリの食事風景。クリックすると動画を再生できる。
050901

ボク、じょーもん坊や。
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運動するヨ!
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暑さ寒さも彼岸までと言いますが、きょうは台風がはるか沖を通過して陽射しもまた強くなり、日中をオープンカーのビートで走るには、まだちょっと早いかなというところです。なにしろうちのビートにはエアコンがないんですねぇ。めっきりと言えるほど涼しくなるのが待ち遠しい!
050925
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050923
イギリスからの来客が先週から我が家に滞在中です。
こうして実際密に接していてとにかくありがたいのは智慧をいただけることです。
日本人にはない智慧があって、日本人には気付かないところに智慧を発揮している。それが異文化と接する良さなんだなあと、またつくづく思うところです。
050906
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050823
東アジアサッカー選手権大会2005 決勝大会、昨夜は日本対北朝鮮でしたが、1−0で負けてしまいました。日本が本来のらしさを発揮できていなかったこともあるでしょうけど、北朝鮮はタイでのワールドカップ予選の時とは見違えるチームになってましたねぇ。監督が替わったおかげでしょうか。日本は部分的にはジーコジャパンらしさというか、ちょっとブラジルっぽいサッカーを見せてくれていた気がしますが、その悪い面が出たんでしょうか。しかし北朝鮮は必死でしたね。タイでの無観客試合がもし韓国でサポーター付きで行われていたら、怖いチームだったかもしれませんね。
050801
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