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from Suruga, Japan

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静岡県で積雪

会社から見たきょうの富士山です。
昨日からの雨が富士山では雪だったようです。
きょう日中からは晴れて、暑くなってきました。天気予報の言うとおり、半袖にしてきて正解でした。しかし暑くて頭がぼーっとします。エアコン入れるほどではないんですがねえ。
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ピンぼけ写真

これも土曜に撮った写真ですが、うっかり「マクロモード」にしたまま車を撮ってしまったものです。
それがなんだかいい感じなのでアップしてみました。(かなりアンダーで撮ったので、明るさとコントラストを調整してあります。)
ぼけ写真というのは、細部がわからなくなってますから、細密画ではない、ラフな絵のような感じなんですね。
こんな写真をもとに、Adobe Photoshop® でいろんなフィルターをかけると、絵画作品のような画像が作りやすいようです。

こちらはちゃんとピントが合った写真です。
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ビュフェ美術館

静岡県駿東郡長泉町のビュフェ美術館は、東名沼津インターからさほど遠くない距離にあります。

あたりは駿河平という高台の住宅地で、今でもたくさんの分譲地が売りに出されています。1区画平均250坪ぐらいと広々していますが、斜面だったりしますので、建築にはお金がかかりそうだなと素人は思うのでした。しかも、付近には買い物できる商店も小学校も中学もなさそうに見えます。しかしその銀杏並木のうしろには洒落た家が建ち並んでいて、上等の外車なども置いてあったりします。どんな人たちが住んでいるんでしょう。とにかく下界と離れて静かなところに住みたいという人たちなんでしょうね。

写真は、 一昨日土曜に行って撮ったビュフェ美術館駐車場の桜ん坊です。
我が家でもなったんですが、ほんの少しで、一人いくつもありませんでした。ここのもさびしいものでした。
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OKITS' スイシャーマン

私の学生時代に父が面白いマシンを発明しました。
父は静岡でも最も古い部類のバラ栽培農業をやってきており、今は次男が継いでいて、我が家にはバラの温室がいくつかあります。温室の屋根は農業用のビニールを張ったものなのですが、それが汚れてくると透明度が落ちて日光を遮ることになります。発明したのは、それを洗う「道具」なんです。

面白いのは、まずキャタピラがついているところ。キャタピラはタオル地で作ってあって、それを戦車みたいに回して屋根を洗います。
キャタピラを回すには動力が必要で、洗うとなると水が必要になるわけですが、父はそれを「水車」で回すことにしたのです。

「水車」に水を吹き付けるのは、動力噴霧器から送られてくるホースの水で、勢いよく回る水車はおもちゃのような細いチェーンを回して、それでスチロールのホイールを回します。ホイールには、合成繊維のカーペット地のキャタピラがついていて、その外回りにタオルが縫いつけてあります。
動力源となった水がキャタピラを回してマシンは屋根を登るのですが、その水は同時にマシンの上についた屋根に跳ね返ってキャタピラのタオルに流れ落ちますので、常にたっぷりときれいな水を供給されながら屋根を洗っていくという仕掛けです。
水を供給するホースは、そのままコントロールケーブルとして、操作をする人が下で送ったり引っ張ったりするのに使います。
発想はできたとしても、実際にちゃんと動いて使えるようにするまでには、かなり苦労をしたようでした。

完成品は、親戚の工場で複製し、某種苗会社で販売するということにしたらしいのですが、いかんせん、需要がそうあるわけもないので、これを知っている人はほとんどいないものと思われます。

それでもアイデアとしては実にナイスなものであり、昨今のエコロジーブームなどにも適いそうなところです。

このまま埋もれさせておくのはもったいないと思うんですが、どこかで買ってくれないでしょうかね?

ちなみに、私の卒業制作(美大なので卒業論文ではない)は、このスイシャーマンのCMでした。
昨年亡くなった弟を出演させ、8ミリカメラで撮影し、中高時代落語をやっていた親友にナレーターを頼んで、バラの花が咲くところのコマ撮りなども加えて完成させました。

出来は大したことなかったんじゃないかと思われますが、当時映画(科目)の講師をされていた故浦山桐郎先生には、作り手の優しさが出ていて良い作品だとお褒めの言葉をいただきました。
何としても卒業はしたかったので、家族を使ったのは良かったと思います。「そうか、お父さんが発明されたのかぁ…」なんて思われて、点数が甘くなるに決まっているからです。
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超軽量自転車

中学3年で旅をした自転車は、12キロぐらいの重量があったんですが、大学に行って、バイトなどするようになって、軽量の自転車を作りたくなりました。
フレームは自分で設計して、パイプ材の銘柄など指定して、フレームビルダーに作ってもらいます。これは、競輪選手などがしているようなことですね。
それから、部品を集めます。雑誌社から出ているパーツカタログというのがあって、それに記載されている重量を睨み、さらに台所用のバネばかりで実際に量ってみたりもします。気の利いたカスタム自転車専門店ならはかりが置いてあります。
フレーム材というのは、上等のものですと、バテッドチューブといって、溶接する端の部分から中央部に向かって肉厚が薄くなっています。材質は、クロームモリブデン鋼というやつです。

作りたかったのは、ツーリング用の自転車で、峠を楽に登れる12段ぐらいのギアに、普通のチューブ入りの、レース用ではないタイヤ、それに前後の泥よけと、旅行用のフロントバッグを載せるためのフロントキャリア、あとヘッドライトと、後部のリフレクター(反射鏡)を装備した、いわゆる「ランドナー」という、フランス式の小旅行用車です。高級パーツで組んだ軽いものでも11キロぐらいはあるのが普通です。

それを8キロで組みたいと考えました。
バテッドチューブは、一番薄いところが0.3ミリぐらいのものを使いました。うっかり工具が当たるとへこんでしまうという、困った鋼管です。
その他のパーツも、カタログで一番軽いものを選びました。フリーホイールという、後ろの多段ギアは、チェーンで摩耗しやすいので普通は鉄製なのですが、それもアルミ合金製を使いました。ハンドルを固定する部分のステムには、引き上げボルトという、これはフレームに固定するためのボルトがついているんですが、それはチタン製です。部品1つか2つで安い自転車が1台買えてしまうというような、高価な部品をいくつも使いました。
それで7キロ台を達成しました。その自転車は、1980年ごろに『ニューサイクリング』とう月刊誌に掲載してもらったこともあります。

その軽量ランドナーでは、峠越えなんかもしたんですが、やはり上りがとても楽ちんで、同行する友人たちを置いてさっさと上ってしまい、上でゆっくり待っているなんてことができました。
しかしある時には、フロントギアを曲げてしまったこともありました。本来6本のスポークだったのを、軽量化のために半分の3本に削っていたのが、やはり剛性不足だったというわけです。

学校を卒業して社会人になってから組んだのが、写真の自転車です。
これは、プジョーで完成車として発売されていたロードレーサーの、ヴィチュというメーカーのフレーム(アルミ合金製)だけを静岡市内の自転車店で売ってもらって、そこに軽量ランドナーに組み付けてあった軽量部品をいくつか組み付け、足りない部品は更に軽いものを仕入れて、レース用の、特別軽いタイヤ・ホイールをつけていて、泥よけも荷台もありませんから更に軽く仕上がっていて、7キロを割ることができました。

写真では、オールランダーという、棒状のハンドルがついていますが、ドロップ型に交換することもできます。
1985年、ドイツとオランダから、ユースホステル利用の自転車旅行団体が来まして、清水の三保ユースから御前崎ユースまでの区間、案内をかねて同行させてもらったんですが、彼らの自転車は、軽量化なんてろくに考えてない重いものばかりで、それに寝袋だのたくさんの荷物を積んでいました。私は6キロ台の奇跡的な軽量車で荷物もなし。
ところが、静岡市と焼津市の間にある大崩(おおくずれ)という峠道を上っているとき、団体の中のオランダ人一人に追い越されました! もちろん彼も、ものすごいたくさんの荷物を積んでいました。身長190センチ近くはあろうかという大男なんですが、それにしても、世界一身軽といっていいくらいの自転車で負けたんですから、情けない話です。

この時が縁で、ドイツ人のミヒャイルとベアトリックスという夫婦と親しくなり、翌1986年(チェルノブイリ原発事故の年)の夏から年末までヨーロッパなどを放浪した時には、夏と初冬の二度にわたって、彼らの家に世話になりました。
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中学生時代の自転車一人旅

〜30年も昔の、古い記憶を辿ります。〜

1975年7月23日
自転車は、前輪と後輪が簡単にはずせるようになっているので車のトランクに載せ、父の運転で京都まで送ってもらっての出発でした。昭和50年7月23日、中学3年生の夏休みが始まってすぐのことでした。
ユースホステルの会員になったのは、昭和49年(1974)の9月9日でしたから、この自転車一人旅の時にはすでに会員歴約1年というところで、なにやら自信満々でした。 自転車は、3万円もするクロモリのフレームを買ってもらって、それに自分でパーツを組み付けたツーリング仕様で、大きめのフロントバッグに着替えからなにから詰め込んで、ペダルも軽く、京都から神戸市垂水区の「たるみ海岸ユースホステル」を目指したのが一日目でした。
この区間はまだ国道1号線からでしたから、さほど遠くへ来た気はしませんでしたが、道をたずねると、教えてくれる人の言葉は関西弁で、それがぞくぞくするほど嬉しかったのを憶えています。
[たるみ海岸ユースホステル(私営、現在「たるみユースホステル」?)・1泊2食付¥1,000]
ユースなので、ドミトリー式の部屋なんですが、旅行をしているルームメイトはほとんどが大学生でした。

1975年7月24日
神戸からは、確かフェリーに乗ったんじゃないかと思います。(*追記:思い出したんですが、船に乗ったのは、明石からでした。)このへん、曖昧です。淡路島に渡って、島を縦断しました。
淡路島の民家は、瓦屋根がとても立派で、こういうのは静岡の方にはないなあと思いました。
それから鳴門海峡を、この時は確か小さい船だったと思いますが、自転車を積んでもらって渡りました。
鳴門の渦潮が見たかったんですが、船はそれを見せてくれました。どの程度のものを渦潮というのかわかりませんが、確かに、海面が少し渦を巻くのを見ることができました。
[鳴門ユースホステル(公営、現存せず)・1泊2食付¥900]
ユースのヘルパーさんが、阿波踊りの時に来れば、「鳴門ユースホステル連」というのを組んで揃いの法被で参加できるんだと話してくれました。いつかきっと来ようと思って30年が経ちました。公営の鳴門ユースホステルも、今はもうなくなってしまったようです。

1975年7月25日
3日目でもう、むき出しの膝が日焼けして痛いくらいでした。この日も暑く、前身汗だくになりながら高松を目指しました。自転車用の水筒もあるんですが、自動販売機のコーラなんかが飲みたくなります。当時缶入りが50円だったと思いますが、一日に一度や二度は買って飲んだと思います。
この日は途中に喫茶店があって、あまりの暑さにちょっと休みたくなり、通り過ぎたのを確かちょっと引き返して店に入りました。
「フラッペ」というメニューがあって、要するにかき氷だったんですが、それを注文したら、やたらとでかいのが出て来て、汗まみれのシャツに冷房もかなり効いていましたから、全部食べ終わって店を出るころには寒くて震えました。これはよく憶えています。
[栗林ユースホステル(私営、現存せず)・1泊2食付¥1,150]
ここは畳の部屋で、カナダの東の端のなんとかいう島から来たという大学生の人と同室でした。英語も少しは習っていたので、会話を、するにはしたんですが、ほとんどだめでした。
ユース経営者のおじさんが、たった二人の客だった私とカナダ人を近所の売り酒屋に連れて行ってくれました。
おじさんはカナダ人に「ジャパニーズ・コーヒー」と言ってビールを飲ませてました。私はコーラだったと思いますが、店の中で立ったままそれを飲んで、またユースに戻りました。おじさんは自分が飲みたかったんだろうと思いますが、上機嫌で、案外楽しかったのを憶えています。

1975年7月26日
渡し船だかフェリーだったか、これもよく憶えてないんですが、高松から小豆島に渡って、島の最高峰の寒霞渓を上りました。けっこう急坂で、時々停めて休もうとすると虻が飛んできます。これには参りましたが、おかげでさほど時間もかからず頂上まで行けたんじゃなかったと思います。
下りはすっ飛んでいくようにあっという間だったはずです。バスなど追い越したような記憶がありますが、これも曖昧です。
港で何かの看板に気を取られたような、これも曖昧な記憶がぼんやりとあるだけです。
小豆島から直接だったかどうかわかりませんが、姫路に渡って、姫路城に行きました。美しい城なので、またぜひ行きたいと思いながら、これも30年経ってしまいました。
姫路から遠くないところだったと思いますが、兵庫県の揖保郡御津町室津というところにあるお寺のユースホステルに泊まりました。
[浄運寺ユースホステル(寺、今もあり)・1泊2食付¥1,100]
ここでは、ちょっとかわいい大学生のお姉さんとお話ができました。
出されたほうじ茶が珍しかったので、「静岡じゃ、こういうお茶は飲んだことない。」と言ったら、「そういうこと言うものじゃないわよ。」と諭されました。
美人じゃなかったですが、なにぶん私は男子校でしたし、翌朝別れてからとても切なくなりました。

1975年7月27日
この日の記憶はほとんどありません。どこをどう走ったのか、地図でも広げて想像するほかありません。大阪に隣接する尼崎市の東園田町3丁目というところまで行きました。
[園田YH(私営、現存せず)・1泊2食付¥1,100]
ここはユースホステルといっても、おばあさんが一人住まいの民家で、若い人たちが泊まってくれるのが楽しくてやっていたんでしょうね。旅の宿という感じはしませんでした。

1975年7月28日
出発点だった京都まで走って、迎えに来てくれていた父の車で静岡まで帰りました。
日常とかけ離れた自転車での一人旅が終わって父の顔を見たときには、寂しいやらありがたいやらで、妙な感情の高まりを覚えました。

かわいい子には旅をさせよと言いますが、自分の子供が今年は中学に入って、もしそのうち一人旅がしたいと言ったら、なんて考えても、ちょっと許してやれそうな気がしません。
女の子だから、という言い訳はできそうですが、自分は本当にやりたいことをやらせてもらってきましたから、父には感謝するほかないと思います。

1974年版のユースホステルハンドブックによれば、当時は日本全国に580を超えるユースホステルがあったそうです。
それが2005年現在、日本ユースホステル協会のホームページで見ますと、約350となっています。

私はその後も、ヨーロッパに延べ8カ月も旅をしたので、若いころ、ユースホステルには世話になってきたんですが、日本でこんなに施設数が減っている現状を見ますと、旅行、というか、旅というものが、日本人にはますます特別なものになってきてやしないかと、ちょっと心配になります。

以上、当時の料金については、ぼろくなってますが手元にある1974年版「ユースホステルハンドブック」によるものです。ここで紹介した1975年当時は、1年経ってますので、それよりも百円ぐらい値上げをしていたかもしれません。
「ユースホステルハンドブック」には広告も載っていまして、どれも時代を感じさせます。「小西六」(←ATOKが変換せず)とか、サクラカラー(←サクラを桜と変換)とか、懐かしい名前が出ています。
050527

楽な子育てにピクサー映画を選んでいます

「タイム」誌の映画百選 ALL-TIME 100 movies The Complete List に戻りますと、新しいものの中に子供向けアニメ映画『 Finding Nemo 』(2003年 Pixar )が入っていて、ちょっとうれしくなりました。
我が家では、 Pixar 作品を子供たちに積極的に見せるようにしておりまして、子供たちも好んで見ております。いつも封切りで見に行かせ、劇場公開された作品は一通りDVDで揃えてあります。
個人的には、『 Toy Story 2 』が最高傑作ではないかと思っておりますが、今年公開された『 The Incredibles 』は、私だけまだ見ておりません。子供たちだけ映画館に行かせて、大人料金を節約しているためなんですが、来月発売されるDVDはすでに予約をいれてありますので、発売日の6月14日には、さっそく見たいと思います。この時は28インチと小さい画面ながらうんとボリュームを上げて、我が家は映画鑑賞会となります。
ピクサー映画のDVDは、良心的な価格だと思います。今回の「インクレ」も、コンビニでの価格が2580円。これが日本のスタジオジブリの作品ですと2倍近い値段になります。もったいなくてとても買えませんので、ネットで安売りしているのを見かけた折りになど、購入を考えるようにしています。
ちなみに我が家では、ファミコン・プレステの類はさせておりません。なにからなにまで子供のお楽しみが揃ってる必要は全然ないと考えてのことです。テレビゲームやポータブルゲーム機も、みんなでわいわい楽しむ分にはいいと思います。しかし私が会社勤めで目が届かないので、一人でゲームばかりやるようになるとどう育つのか、心配でしょうがないんですね。
さいわい二人とも読書も好きで、『ダレンシャン』とか、『ハリー・ポッター』などを読んでおりますが、変な人に育つほど読書狂いにはなりそうもないので、読みたいだけ読ませるようにしております。もっとも学校の図書室や市立の図書館で借りた本がほとんどです。
勉強になる本を!とかは全然考えませんで、面白くて夢中になる本ならなんでもいいんじゃないかと思っています。子供時代に大事なのは、本というメディアから情報を自由に読みとる能力を身につけることであって、内容はその次、ぐらいに考えてます。内容がいいから読むべきといっても、面白くないものは大人だって読みませんからね。
ピクサーの映画についても、そこに込められた教訓、みたいなものはどうでも良くて、悪い根性がつきそうな悪い内容でさえなければ、あとは面白いことと、作品の完成度が高いこと、美しくて芸術性が高いことが大事だろうと思います。
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秘書の高野虎市さんとチャップリン初来日時の興奮

昭和7年の初来日当時、チャップリンが全幅の信頼をおいていた日本人の秘書がいました。高野虎市さんという人です。
1916年からチャップリンに雇われたそうですが、チャップリンのトレードマークの一つである竹のステッキが日本製だったから高野さんを採用したのだとかいう話もあります。1916年といえば、チャップリンは Mutual 社でまだ短編を作っていたころで、共演するヒロインはいつも、エドナ・パヴァイアンス(パーヴィアンス)でしたね。
広島出身の高野さんはチャップリンよりも一つ年上で、チャップリンがイギリスからアメリカに渡る1913年よりもずっと早い1906年ごろからアメリカに住んでいて、アメリカで弁護士になるための勉強をしていたそうです。

実はこの高野さん、チャップリン映画にも出演していて、たとえば1917年の「The Adventurer (チャップリンの冒険)」では、溺れかけてずぶ濡れの人たちを車に乗せる運転手の役です。
かなりくさい演技で、いかにも素人だなという感じなんですが、あの完全主義者のチャップリンがよく出演させたなあと思わせます。
ちなみに、「The Adventurer 」には、アイスクリームも登場します。召使いがそれぞれ大きめの器に入れて、2階で語らうチャーリーとエドナに出すんですが、チャーリーのは全部ズボンの中に落ちてしまいます。それがさらに階下に落ちて、上品なおばさんの大きく開いたドレスの背中にべちゃり、ぬるぬるぬる…とお尻の方へ…。

ヨーロッパからの船旅で、第一の目的地だったバリ島に滞在してから、第二の目的地日本を訪れたときにも、もちろん高野さんが同行して、日本政府との連絡や通訳を務めたそうです。
高野さんのことについては、「高野虎市」または「Toraichi Kono」で検索すると、かなり詳しく書かれたページを見つけることもできますので、探してみてください。

1932年5月14日、チャップリン一行が船で到着したのは、神戸港でした。

In Kobe harbour we were greeted by aeroplanes circling over our ship dropping leaflets of welcome, while thousands cheered on the docks. The sight of numerous brightly coloured kimonos against the background of smoke-stacks and the drab grey docks was paradoxically beautiful. There was little of the reputed mystery or restraint in that Japanese demonstration. It was as excited and emotional as any crowd I have ever seen anywhere.
      The Government put a special train at our disposal to take us on to Tokyo. At each station the crowds and excitement increased, and the platforms were crammed with a galaxy of pretty girls who loaded us with presents. The effect, as they stood waiting in their kimonos, was like a flower show. In Tokyo an estimated crowd of forty thousand waited to greet us at the station. In the rush Sydney stumbled and fell and was almost trampled uppon.
My Aoutobiography (1964) (チャップリン自伝)

チャップリンが到着したことを知らせるビラまきの飛行機が上空を旋回したと書いてありますね。
それから着物の女性たちが出て来ます。このころの日本映画で「現代劇」を見ますと、都会でもまだほとんど着物でしたから、平成の現代と違って、チャップリンは「異国情緒」を大いに堪能したようです。
しかしそれも西欧化されて失われていくのではないかと心配したことも、自伝の中に書かれています。

日本政府は専用の列車を出してくれて、それで東京まで行ったようですね。駅ごとに群衆と興奮が増していき、たくさんのプレゼントをもらった、東京駅では概算で4万の大群衆がチャップリンを迎えたと書かれています。ものすごいことですが、チャップリンは、クラシック音楽や美術方面の芸術家ではなく、あくまでも大衆芸術としての活動屋、かつ世界一有名な大スターだったわけですから、その数も十分にうなずけるものです。

シドニーという名前が出て来ますが、チャップリンの実兄で、幼いころからずっと苦労を共にしてきた人です。チャップリンの映画にも端役で何度か登場しています。東京駅では、大群衆に揉まれて転んでしまい、踏みつけられそうになったとあります。
この時の様子を記憶しておられる方がいたらお話をうかがいたいものですが、おそらくもう難しいことでしょう。

チャップリンの自伝を読みますと、この初来日の時、秘書の高野さんはいろいろと機転を利かせて、どうやらチャップリンを危険から遠ざけようとしていたのではないかと思わせるところがあります。
皇居の前を車で通るときにわざわざ車から降ろして一礼させる(一般にそんな習慣は当時もなかった)など、奇妙な要求をしたというんです。日本政府から事前に情報を入手していて、極右勢力を敵に回さないためだったのかもしれません。
050525

五・一五チャップリン暗殺計画

今から73年前の昭和7年5月15日といえば、五・一五事件ですが、犬養毅首相が暗殺された直後の首相官邸を訪れ、畳の上に流された血がまだたまっているところまで目撃したイギリス人がいました。それがチャップリンなんですね。何とも大変な時に来日したものです。
五・一五事件の首謀者である古賀清志という海軍中尉は、来日中のチャップリンを暗殺することも考えていたそうで、 My Aoutobiography (1964) (チャップリン自伝)によりますと、Alfred A. Knopf という人の書いた Government by Assassination (1942) という本の中に、次のような裁判記録があるそうです。

JUDGE: What was the significance of killing Chaplin?
KOGA: Chaplin is a popular figure in the United States and the darling of the capitalist class. We believed that killing him would cause a war with America, and thus we could kill two birds with a single stone.

つまり、チャップリンを殺せばアメリカと戦争ができると考えたというんですね。
事件が起こったその時チャップリンは、犬養首相の息子である犬養健に国賓として招待されて相撲見物をしていたんですが、チャップリンがなぜ暗殺されなかったのかといえば…

The same prisoner said that the plan to kill Chaplin was abandoned because 'it was disputed whether it was advisable to kill the comedian on the sligt chance that it might bring about war with the United States and increase the power of the military'.

つまり、古賀中尉たちは、チャップリンを殺しても当初考えたような目的を達成する可能性は低いと考えなおしたということらしいです。
これについてチャップリンは、チャップリンがアメリカ人ではなくイギリス人だと知ったからではないかと、自伝の中で述べています。

この一件については、日本でもサスペンス小説が書かれたり、テレビドラマになったりもしてきているそうですが、残念ながら私は見たことがありません。

1932年、『街の灯』が公開された翌年のことです。
050524

米誌「タイム」が映画百選

アメリカの「タイム」誌が映画百選というのを発表しています。ALL-TIME 100 movies The Complete List
見てない映画、そんなにいいと思わなかった映画も入ってますが、アメリカ人が選んだものですから、当然自分などとは違った基準があるわけです。
中には、自分もいい!と思った映画が入ってます。例えばアメリカ映画で見ますと…

エリア・カザンの名作『欲望という名の電車』(1951)。ヴィヴィアン・リー、マーロン・ブランドー主演で、舞台でやっていたものを映画化した作品だそうですが、まあしかし、ここまでリアルな現実もないだろうというくらいの、超リアルな人間描写が圧巻です。

マイケル・カーティスの名作『カサブランカ』(1942)。ハンフリーボガート、イングリッド・バーグマン主演。ドイツ人の友達とは、ちょっと話題にしづらい映画になりますが、私は脳天気にもはまりまして、実際にモロッコのカサブランカまで行ったこともあります。映画では、ドイツ占領下のフランスから、自由の天地アメリカへ逃れるために、フランスは地中海沿岸のマルセイユから、対岸はアルジェリアのオランに渡り、陸路西へモロッコのカサブランカまで行くと、運が良ければポルトガルはリスボン行きの飛行機に乗ることができたんですね。私の放浪は、マルセイユでちょっと滞在し、呑気に西へとバス旅行、スペインはバルセロナなどを見物してさらに地中海岸を南下、アルヘシラスからモロッコはタンジェに渡ってのち、首都のラバトに逗留、のんびりした後でマラケシュまで行ってからまた地中海岸のカサブランカに戻り、そこからモロッコ王室航空の旅客機でリスボンに飛びました。イルザ(バーグマン)がピアニストのサムに言うあの台詞「Play it again.」(またあの曲を弾いて)をカサブランカのホテルのバーでフランス人ピアニストに言ったら、本当にあの主題曲「As Time Goes By」を弾いてくれて感激したもんでした。

チャールズ・チャップリンの名作『街の灯』(1931)。チャップリンの代表作と言ってもいいでしょうね。もっともそれに勝るとも劣らぬ名作がたくさんあるチャップリンですから、『街の灯』だけを選ぶというわけにはいかないでしょうけど。1931年という年は、アメリカではとっくにトーキー映画が始まっていたんですが、チャップリンという20世紀最大の芸術家は、この『街の灯』と、続く『モダン・タイムズ』(1936)でも、あえてサイレントの手法で映画を作っています。芸術家としたらそれもいたって普通のことだと理解できます。つまり、自分がこれまで積み上げてきた芸術手法をまったく別のものでまたやり直せなんて言われても、そう簡単にできるもんじゃないからです。しかし、だからといって、トーキーを馬鹿にするようなシーンまで作らなくてもいいんじゃないかと思われますが、チャップリンはそれをやってくれました。『街の灯』の冒頭は、公園での彫刻の除幕式。市長さんだかと、その奥さんだかがスピーチをするんですが、そこでちゃんと二人の話す声が出てきます。ところがこれがデタラメ語で、誰にも意味がわからんというわけです。『モダン・タイムズ』でチャップリンが歌うシーンもそうでした。「ティティナ」という曲なんですが、これもデタラメ語でした。デタラメ語なんだけど、チャップリンは踊りながら、パントマイムをしながら歌ったので、歌詞の内容が日本人にもアメリカ人にも大体わかったという、映画史に残るものすごいシーンでした。「台詞なんて大した意味はないさ」というメッセージだったわけですが、続く『独裁者』、『殺人狂時代』、『ライムライト』では、これもまた映画史上に残る有名なスピーチをしています。
(つづく)
050523

台湾人の努力を応援します 2

台湾という国は、1990年代から、一党独裁体制をやめて民主化を果たし、現在では二大政党の時代になりつつあるという、非常に健全な方向に来ていますから、中国のような反民主的な「国」からどうしろと言われる筋合いは全然ないわけです。
中国という「国」は、ただ単に“異常な大所帯”というだけで世界で一番の国だと思い込んでいますから、周辺を侵略することさえも世界にとっては正しいことだという狂った論理なんですね。
日本にもああしろこうしろと、余計なことばかり言ってきます。台湾はさらに虐められていて、「国連」の「常任理事国」だというその立場を悪用して、台湾に他国との外交をまったくさせないようにしています。
他国に対しては、ああしろこうしろ、ああなれこうなれと、まことにうるさくてかないませんが、一番変わらなければならないのは、どこの国から見ても中国それ自体であるわけです。
台湾の政治情勢の中に、多少の民主化に逆行するような議論がたとえ起ころうとも、外国人の立場からそれに対してあれこれ批評するのはもうおかしいし、時代錯誤というべき時点にまで来ているのかもしれません。
さらにがんばって欲しいと思うのは、自国の中に残存している「中国」(旧支配体制とその価値観)を浄化することだけで、それも着実に進められてきているはずです。
こうなると日本としては、隣国として、同じ自由と民主の国としての友好関係を築く努力をすればいいだけの話で、あと一番大事なこと、互いに協力してやっていかなければならないことは、協力して中国を変えてゆくことだろうと思います。
実際に現状でも、日本や欧米などの対中国外交というのは、“中国を変えること”が最大の目的となっているはずです。ただそれは表だっては言わずにおいて、経済援助や資本の投入を積極的におこなうなどして、中国人の生活水準を上げる、上げることによって諸外国からの健全な情報や価値観が流入してくれば、中国人の政治的な関心や発言意欲も上がってきますから、現状の一党独裁体制も解体される方向にむかうというわけです。
とにかく中国さえまともな国になってくれたらたくさんの問題が解決するわけですね。
嘘で塗り固めた超大国なんてのがいつまでも続く道理もありませんし、それを続けさせてはいけないはずです。

かつて台湾独立運動をやって国民党独裁時代の台湾から亡命を強いられた邱永漢先生は、日本や台湾で中国ビジネスを盛んに宣伝して、今の独立派の人たちからひどく非難されたりしているようですが、邱先生の最大の目的としても、“中国を変えること”というのがあるんだろうと理解します。
台湾を豊かにするのにこれだけ貢献されてきて、今度は中国を豊かにする、そうすることこそが、台湾人を幸福に導くための最も確実な道だと先生はお考えのようです。
政治思想を主導として中国を変えるなんてことは不可能だということに、私たち凡人もいい加減に気付かなければならないんでしょうね。
050522

富士山 箱根

きょうは富士山でもぐるりと行こうかと思ったんですが、富士山スカイラインに朝の8時ごろ、それから御殿場に行って、そのまま箱根の湯元まで行って、一風呂浴びて帰ってきました。急がず騒がず全行程6時間ほどでした。

この季節、富士山はなかなか見えないんですが、午前中に見えて昼ごろ見えなくなったり、午後遅い時間にちょっと見えたりと、いたって気まぐれです。
今朝も静岡市からは霞んでいて見えず、近づくにつれて見えてきて、朝のうちは写真の通り、富士山麓ではくっきりと見えていましたが、箱根からの帰りにはまったく見えなくなってました。
(ビートのページの「Photo Tour 027から」にもきょうの写真があります。)

使わせてもらった日帰り温泉は、「足洗いの湯 和泉」というところです。タオル別1200円で、ロッカーも100円取られますので、箱根でも高い部類に入ると思いますが、「最古の源泉」とうたっていて掛け流しだそうで、洞窟のようなお風呂もあったりします。お湯もわずかな滑り感があって、なかなかいい感じでした。

東の方へのドライブは、どうしても渋滞に巻き込まれます。箱根はもちろんのこと、三島や沼津あたりもかなり混みます。それだけいい所がたくさんあるということなんですが、関東方面から静岡県にお越しの皆さん、どうぞもっとこっちの方へも来てください。富士山や伊豆ほどおもしろいところはないかもしれませんが、とりあえず空いてます!
050521

台湾人の努力を応援します

誰かが笑うのを見て、卑怯だと思うときがあります。
こっちがいままさに首を絞められているこの局面が見えぬはずもないのに見ぬ振りをして、全然別のことに注意を向け、笑う。
その笑いが許せないと思うときがあります。

在日の台湾人で、台湾の独立運動を一所懸命にやっている人たちがいます。
私も実は応援しているのですが、そうした運動をあざ笑うかのような現実があります。
まず、台湾を併合して支配しようとたくらんでいる中国の動向です。
中国は、台湾を武力で侵略してもよいという法律を作って、世界から非難を浴びています。

ところが、その世界でさえも、独立派台湾人など見ぬ振りをして笑っています。それが二つめの現実です。
台湾が中国と戦争になったら米軍が台湾を援護するという法律がアメリカにはあるのですが、それにも関わらず、アメリカは「反自由主義」「反民主主義」「人権弾圧」を公然と続けている中国の機嫌を損ねないようにしています。
どこの先進国でも、台湾を「国」という位置づけで見ることはなく、あくまでも「中国の支配が及ばない、もう一つ“別の中国”である」と見ています。

しかし台湾の独立運動というのは、中国を相手にしているわけではありませんで、台湾を支配している「中華民国」という、中国で敗れた蒋介石の率いてきた国を相手にすべきことなのです。
つまり、台湾の政権である「中華民国政権」が台湾人を支配してきたわけですが、これを無効にしようというのが、台湾独立運動です。

しかし本当にそれを無効にしようというのなら、独立派の政党が中華民国を解体するなりすればいいだけの話だろうと思います。
つまり、西暦2000年、民進党という独立派の政党が、大統領選挙を制して政権の座についたわけですが、それからさらに2004年の大統領選にも勝って、いますでに2期目をおこなっています。そんな独立派政権でありながら、いまだに中華民国は続いています。
いったいどうして、独立派政権なのに中華民国をやめられないのでしょうか?

その原因のひとつには、言うまでもなく中国の脅しがあります。
もしも中華民国から独立して台湾国を建国するなら、中国は台湾と戦争をして侵略すると公言しているのです。
経済的にこれだけ豊かになってきて、誰もが人生を充実させようとがんばっているところへ、戦争なんてされたらたまりませんから、当然誰だって及び腰になったり、対立を避けようと思うわけです。

そして、もう一つの大きな原因は、台湾人自身にあります。
台湾の人たちというのは、1895年から1945年までの50年間、日本の支配を受けて、日本の「二等国民」をさせられてきたのですが、その間も、自分たちは本来、支那人であると信じてきたのです。日本が戦争に負けて、蒋介石の中華民国の一部になるというときにも、当初はみんな喜んでお祝いをしたぐらいです。
そんな人たちですから、台湾独立派の政治運動が、「我々は中国人ではなく台湾人である!」といくら叫んだところで、「中国人ではまったくあり得ない」とまでは思っていないのです。せいぜいが、「中国人というよりも台湾人のほうがしっくりくるかもしれないな」程度のことでしょう。

これは台湾に住んでいる様々な民族のどれにも共通のことで、中国人にも支那人にも一度もなったことのなかった原住民の人々でさえ、中華民国の国民だという中国人意識をもっていたりしますから、どうしようもない現実だというほかありません。

つまり、独立派の運動とは裏腹に、中華民国(旧中国)という国は、台湾人自身の手によって、手厚く守られているというのが、認めざるを得ない現実なのです。

こんな絶望的な現実でも、それに立ち向かって、台湾人のための台湾国を建国しようとがんばっている人たちがいるのです。
私は、中国(中華人民共和国および中華民国)という国における“伝統的な政治思想”の存在が、アジアや世界にとっての最大の災難だと思っていますが、台湾独立派の人たちというのは、その災難に積極的に立ち向かおうとしている勇気ある人たちなのです。

そのようなわけで、台湾人による脱中国、つまり中国伝統の政治思想からの脱却を、これからも是非とも応援していきたいものです。勇気ある人たちを孤立させるようなことがあってはならないと思うのです。日本の政治家にもこの問題を積極的に考えている人たちがいて、日本という国が台湾をちっとも応援しようとしていない現実を、微力ながらも変えていきたいと願っています。

しかし、実はそれよりも大事なことがあります。台湾の人々が平和のもとに豊かに暮らしている、この現状だけは、絶対に壊してはいけないということです。

邱永漢先生は、日ごろからご自身のサイト『ハイハイQさんQさんデス』でも、政治が現実に追いついていないと述べておられますが、言われてみれば確かにその通りで、政治思想よりもこの時代のこの活気を、臆することなく直視せよということなんだろうと理解します。

政治が時代を作るのではなく、時代が政治を変えてゆく、政治も時代に合わせて変わらざるを得なくなるということなんでしょう。
最も頑なな専制政治を続けている中国ですら、そろそろ変わらざるを得ない限界に来ていることでしょうからね。
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アナログ イラストレーション

これはもう20年ぐらい前に描いたものです。ワトソン紙にカラーインクというのがいつもの画材でした。このころはいつも素朴な感じを狙っておりました。
それをまた印刷用に4色分解して、表面に凹凸のある紙に印刷してあります。原画の色そのものは出ませんが、なんとかもうちょっと近づけてくれと、いつも印刷会社さんを困らせておりました。
思えば、いろんな人、たくさんの人たちにお世話になって生きてきました。今でも一人で生きていけるわけではありませんから、これからも、死ぬまでずっと、いろんな人にお世話になって生きていくことになります。
できるだけ恩返しをしながら暮らせたらいいなあと思っておりますが、どうにも自分はわがままで、自分のことばかり考えております。

広告コンクール

今年も某観光協会から、某広告コンクール参加広告の仕事が入りました。
今までに、銀賞(二等)を2回いただいておりますが、今度こそ一等をもらいたいものです。とはいえ、この仕事はいつも何の準備もできませんで、写真素材すらあり合わせを使っております。
そんなことでなぜ賞がもらえたりするのかといえば、おそらくコピーだろうと思っております。
受賞1回目には、花火の写真に「感動どーん。」という文字を大きく入れました。
2回目では、花火などを合成して「夏の正解、○○温泉。」というコピーでした。
これがウケたのではないかと思っております。
今年も花火の広告になるんですが、何としても、これだというコピーを考えなければなりません。
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イラストレーション

Adobe Illustrator® というソフトを1995年からすでに10年も使っておりまして、大事な商売道具となっております。このコーヒーカップもさっきそれで描いたものですが、所要時間といいグラデーションの正確さといい、アナログで、つまりカラーインクだのポスターカラーだのガッシュだのロットリングだのエアブラシだのだのといった(ああ、懐かしや)道具で描いていたころと比べますと、Macintosh®コンピューターとそれにインストールされたソフトウェアだけで良いというところなど、便利すぎてこたえられません。
もっともアナログにはアナログでないと出ない味というものもあります。デジタルでそれを出すにはまた別の苦労がいるわけですが、例えばこの絵ですと、3Dソフトなどで作ってレンダリングした場合、普通はもっとデジタルらしくてつまんなくなると思います。
その点、Illustrator® は非常にアナログ的なんじゃないかと思います。Illustrator® で作画したものをAdobe Photoshop® にもっていってさらに手を加えますと、またさらにアナログ的なものが出来上がってまいります。
もっとも、これをたまに勘違いしている人もいて、ソフトがあれば何でも描けると思っていたりするようですが、それはやはり間違いで、アナログで絵が描けない人は、やはりデジタルでも描けないはずです。

長女が中学に入って部活を美術部にしました。若いうちはとことんアナログで描いてほしいと願っております。
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ウェブページデザイン

グラフィックデザインに限らないんでしょうけど、デザインというのは、大事なものと、どうでもいいもの、大事なものを大事に見せるために必要なもの、なにがどこにあるか、なにがどんな役割か・・・などなどといったことを、見る人に不快感を与えず、一目瞭然に見せることなんだろうと思っております。その上で、魅力的なものを付加していったり、アートのレベルにしていったりということでしょう。
はじめからアート指向でデザインする人もいますが、私にはどうもそういうことができません。

このサイトの場合、はじめにコンテンツありきで始まって、その延長でやってきたということと、1996年(ヤフージャパンが始まった年)にまったくの手探りで始めたということ、そして自分の職業に役立つように、ここを練習台としてきたことなどもあって、なかなかまとまったものができなかったり、ちっともデザインが落ち着かなかったりしております。

それで、そろそろ反省して、ここに来て見てくださる皆さんが不快にならないものとして、ここらで落ち着きたいものだなあと思っております。とにかくシンプルでいきたいと思っております。
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マーチ

マーチとジーノ、土曜に撮った写真ですが、この2台、サイズ的に近いものがありますね。
マーチが全長で28センチ、幅で9センチ大きく、高さは同じ。車重はジーノが30キロ重いですが、その分、馬力とトルクで勝ってます。
とはいえ、新規格でもジーノは軽サイズですから、マーチの方が落ち着いた感じがします。デザインもまだまだ古さを感じさせません。いい車ですねえ…。もちろんジーノも良い車です。
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白砂

白い砂で遠浅の海は海底の白砂まで陽の光が差し込んで反射しているので眩しいくらいに明るい色になりますが、そのせいで水の怖さも感じませんで、水たまりみたいな感覚でぴちゃぴちゃと遊ぶことができますが、そんなところへ遊びに行きたいと思う季節も間もなくやってきます。今年はあまり遠く(といってももともと県内から出てないですが)でなくて、近場の海でのんびりしたいものです。
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堤真佐子

朝から日本映画専門チャンネルで高峰秀子・藤原釜足主演の『そよ風父と共に』をみて、町内の清掃、終わってすぐまた日本映画専門チャンネルで堤真佐子・大川平八郎主演の『サーカス五人組』をみました。
日本映画専門チャンネルでは、「4カ月まるごと成瀬巳喜男劇場」という企画で、戦前からの成瀬の“写真”をかけてくれています。「写真」というのはもちろん「活動写真」のことで、戦前には「写真を見に行く」と言えば「映画に行く」という意味だったんですね。

成瀬という巨匠の作品を、日本映画専門チャンネルさんのおかげでたくさん見せていただいていますが、私が一頃夢中になった小津安二郎よりも、屈託なく楽しませてもらえる作品ばかりです。ユーモアのセンスに余裕があって、遊び心にも溢れています。小津はどっちかというと堅苦しいぐらいの几帳面さが美学になっている面があるのですが、成瀬はもっと開放的、それでいて女性を描くことにかけては、小津よりも上をいっていると言っていいでしょう。

堤真佐子(日本映画データベース)という女優は、昭和8年、『音楽喜劇 ほろよひ人生』という映画(P.C.L.)から端役で銀幕に登場し、翌昭和9年に4本、昭和10年にも4本のP.C.L.作品に出演しているようです。一番本数をこなしたのは昭和12年のようで、戦後にはあまり活躍していませんから、ヒロインよりも手堅い脇役といった立場にいた人でしょうか。当時のブロマイドを見せてくれるこんなサイト(銀幕の女神たち)もあって、まことにありがたい時代になったものです。

戦前には戦前の理不尽があって、決して古き良き時代などとは言い切れない面があったとは思いますが、戦渦を挟んでその文化が断裂したようになっているのは確かです。
もっとも、その断裂によってこそ生まれた戦後文化というものを否定するわけにもいきませんから、戦前も戦後も、そして戦争の時代も、しっかりと受け止めて暮らしたいものです。

しかし堤は良いです。
背も低い、顔も「小顔」とかでなくて円いし決して美人ではない、和服の時代の人だからウエストもそんなに細くないし、脚だって今の基準からしたら太い。外見はそんなですが、そこにはすべてを受け止めて生きる理想の女性像、ひいては人間像を見る思いです。男尊女卑の日本社会で男が勝手に作り出した我慢強いばかりの女性像ではなく、もっと普遍的な人間像ですね。
勝った負けたに血道を上げるような低次元の生き方など超越していて、しかもそれこそが、最も普通の人間であるということを教えられる思いです。

このような人物を1930年代から次々に世に問うた成瀬巳喜男監督には、心から感謝しております。
もちろん、日本映画専門チャンネルさん、東宝、その前身のP.C.L.(写真化学研究所)にも感謝、感謝。
050515

Sidewalks of New York

きょうはアメリカの古い歌の著作権を調べてました。
会社で、お客さんの会社のCMソングに使おうと考えたのです。
"Sidewalks of New York (East Side, West Side)" という歌で、題名の通りニューヨークの歌ですね。
James W. Blake(1862-1935) 作曲 Charles B. Lawlor(1852-1925) 作詞、らしい。
Blake, Howley, Haviland & Co. という会社で1894年に作られた、らしい。
ということは、当然著作権なんて切れているはず。
ということで、この案を出してみようと思います。いい曲なんです。

ここでメロディーが聴けます。

戦前には日本でも日本語歌詞をつけて流行ったらしく、私もラジオで聞いたことがあります。
カセットに録音してあったはずなんですが、どこに行ったやら。
うろおぼえもいいところですが、「夜咲く花、恋の花、望みを乗せ行くエレベーター♪」…とかいう感じで、やたらめたらに古くさい歌詞でした。
050513

バナナ

更新がちっとも毎日じゃないですね。なるだけ毎日したいもんですが、頭がほかのことでいっぱいで、更新するネタがないということがあります。困ったもんです。

昨日、昼飯がバナナ4本のみだったんですが、そのせいか、今朝はめずらしくべんぴになってしまいました。
そういうことあるんでしょうか。
この写真は、フリー素材です。(かなり古いものです)
050512

感謝

恩師が他界しお通夜に行ってまいりました。
大変にお世話になりました。感謝しております。
050510

嵐の前の静けさ

きょうはたっぷり時間をかけて「もーふぉろじぃ」の原稿を書き、頼まれていたミニカーを中央郵便局から英国に発送して、のんびりと、なんとなく時間が過ぎていきました。
しかし、自動車税と軽自動車税の納入通知書も届き、来週は結婚披露宴に招かれていて、さらに中学の夏服を買わないとなりません。きんけつの嵐が間もなく吹き荒れます。今はその前の静けさを味わっているところです。
050507

こどもの日

ビートばっかり出してましたので、ジーノを…。話題は…特になしですが、日本平の誰も使わない駐車場はロープがはられてまして、横の日本平美術館の、これも広大な駐車場です。
キャンピングカーがいました。ここで夜を明かしたようです。便利でいいかもしれません。お風呂、どうしたんでしょう…。

こどもの日です。柏餅をいただきました。柏の葉は、うちに生えてるやつです。
050505

連休の滝

昨日撮った道ばたの名もない滝なんですが、なんだか品がないですね??

それはともかく、五月の大型連休も明日まで、といっても、金曜が平日でまた週末なんですが、今年は東京へ行かずにずっとうちにいるせいでしょうか、県外からの車が非常に多いです。
それも、日帰りか、一泊ぐらいで来られそうな車から、かなり遠くのナンバーまでいろいろ…。
皆々さま、静岡へようこそおいでくださいました。お天気でよかったですねえ!
050504

山吹

一人でドライブをおこなってまいりました。ほとんど静岡市内、なんですが、200キロ以上走りました…。
安倍川中流の玉川地区から井川に上り、畑薙ダムまで行って、大井川を下って、県道の藤枝天竜線で帰ってきました。
いつもの土日なら、ほとんど一台もすれ違わないような道路にも、今日は車がいました。
山吹は、なぜか好きでしょうがないです。子供の時分に祖母にでも刷り込まれたんではないかと思われますが。
050503

ちびまる子ちゃんランド

静岡市清水区のちびまる子ちゃんランドです。エスパルスドリームプラザの3階にあります。
いつも外で待ってばかりだったんですが、今日は数年ぶりに、子供たちと一緒に中に入りました。
050501

ボク、じょーもん坊や。
ボクをさわると
運動するヨ!
このところ、昔話シリーズが続いております。
インターネットなどなかった時代の記録というのは、言ってみれば「ネット先史時代」ですから、そのままにしておくと発掘に苦労したり、埋もれたままで消えてしまうことになります。
しかもその先史時代の方が、自分にとっては長い時代になりますので、読んでいただいて多少は面白いかと思われるものをこれからもアップしてまいりたいと存じます。
050529
本日付け更新の「30年も昔の、古い記憶を辿ります。」は、検索エンジン対策のため、「中学生時代の自転車一人旅」に改題しました。
「SEO」と呼ばれる検索エンジン対策ですが、なかなか面白いものですね。Googleさんで当サイトが上位にヒットする検索語、現状では、「パングラム」1位、「日本語形態論」1位、「日本語文法」6位、などとなっております。毎日更新の記事タイトルからも、「Sidewalks of New York」4位、「堤真佐子」7位、「五・一五事件 チャップリン」2位など、うまい具合に上位に来ているようです。何千件、何万件の中からそこまで上位に入るには、それなりの理由があるわけですが、実は、私も詳しくはわかりません。
050527
縄文ネットのアクセス数、ビートのページが一番多いみたいです。それにしてもビートという車は根強い人気です。発売から15年目に突入した車なのに、すごいもんです。二番目にアクセスの多いのはジーノのページ、次がもーふぉろじぃ(文法)のページ、次がこのホーム・・・となっているようです。しかし契約しているサーバー会社のアクセス解析ソフト「Analog」はちょっと使いにくくて、ページへのアクセス数が正確にわかりません。
050520
アイコンをいくつかと、ファビコンも新しくしました。
ファビコンというのは、ブラウザのタブ(I.E.さんは次期バージョンからやっと採用だそうで 笑)や、URLのところに出る16ピクセル四方のアイコンです。
アイコンは、ちょっとビートばかり大きすぎるかもです。
アイコンにカーソルをもっていくと日本語も出ます。
050519
またまた、大いなる模様替えです。やっぱり軽くすっきりに越したことぁないべ?…ということと、検索エンジン対策もかねてます。
今日は運転免許証の更新で「一般講習」を受けてきました。
050518
ヘッダを模様替えしました。 茶畑の写真にも空があったんですが、別の空との合成です。
050513
5月ですねぇ…。暑くなく寒くなく、一年で一番好きな季節であります。3連休、きょうで終わりですが、あさってからまた3連休です。皆様方におかれましては、どうぞ楽しい休日をお過ごしください。
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