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このサイトの要点。 (2008.6.10)

「食べ。」だから「過去形」。あるいは「完了形」。
・・・というのがこれまでの説明です。

しかしそれではすっきりしないのが日本語。
「過去」でも「完了」でもないところで「」は多用されています。

「未来/現在/過去」、「未完了/完了」、「未然/已然」・・・
それらのどれでもない、 日本語の本当の意味 を明らかにします。

私たちの認識の原理を解き明かすことでもあります。簡単に概略を述べると以下のようなことです。

認識という行為が成り立つためには、認識する人の主観(認識の主体)と、その認識の対象(客体)とが対になっていなければなりません。そこには主観と対象の、原初からの対立があるわけですが、両者の境界線の引き方が間違っていると、認識の原理に対する誤解が生じてしまいます。例えば「思考」や「記憶」といった、認識する人自身の内にある事象がありますが、それらを私たちは認識の対象としています。

言語の最も深いところでは、私たちは当たり前のこととして、この主観-対象間のやりとりをし、そのやりとり形式の判別が「助詞」「活用語尾」等の選択を決定していると考えられます。

つまり、時間であるとか、完了/未完了であるといった、いずれも認識の対象の側にのみある状態の識別だけで、「る/た」の選択を決定してはいないという考え方です。「る/た」のような、「肯定/否定」以上に基本的で説明の難しい、意識の深いところでおこなわれている語(語形)の決定は、「時間」などよりもずっと説明が困難で、ずっと基本的な意識の活動形式によって決まっている、それはこの説明の困難さから見ても自明のことではないかという考え方です。

「る/た」の本当の意味については、「る:主観が主導的な認識形式」/「た:対象が主導的な認識形式」というのが、現時点まででの結論ですが、このサイトでは、それを可能な限りわかりやすく解説しているつもりです。是非ご一読ください。

悶々とは? (2008.4.8)

まったく不本意ながら、「悶々とは」で検索すると、Google で1位にヒットするのがこのサイトになっています。
そして毎日のように、その1位をクリックしてここを訪れるお客様がおられます。
というわけで、書かざるをえません。

「悶々」とは、かなり悩んで苦しむ様子のことですね。その苦しみを「悶」つまり「もだえる」という意味の漢字を重ねて表した言葉です。中国語にもある単語ですが、主に「息苦しい」という意味で使っていると思います。

こうした漢語というのは、実は私たち日本の一般庶民には上等すぎる言葉ですから、おじいちゃんおばあちゃんから受け継いできて子供のころから使っている言葉とは違います。もっと賢い人や偉い人が好んで使う言葉です。だから馴染みがなくて、「本当はどういう意味だろう?」と、ふと思って検索するという方が見えるのは当たり前のことです。
「悶々として寝られなかった。」というように使うわけですが、当サイトは、客観的に説明可能な語彙について研究する場ではありませんので、ここまでにしておきます。

原初のカテゴライズにこそ文法を解く鍵がある。 (2008.2.5改訂)

原初には、「ウー。」であるとか、「オー。」であるとかした発声があったはずだ。
仮に「ウー」を「押し」とし、「オー」を「受け」としよう。

おのれの主張を押し出すという、漠然とした「感じ」がある。
その感じを、力を込めて「ウー」と発してみる。

もしそのとき、相手である彼が彼自身の主張で押し返そうとはせず、
こちらの発した「ウー」を受けるのみであった場合、
彼はたとえば、力なく「オー」と発する。

ここに、押しと受けという、相互伝達が成立する。
相互伝達は、「ウー」と「オー」という発声を伴ったわけだ。

むろん、発声のみではなく、態度、顔の表情、体の動きなどを伴っただろうから、
原初では、発声だけでの伝達ではなかったはずだ。

しかしながら、語気や態度、表情などを伴った「ウー」は、
いつしか一人歩きを始める。

発声以外の要素を別に伴わずとも、
「ウー」だけで「押し」という意味をもつようになるわけだ。

「ウー」という感じ、「オー」という感じとしかいいようのない「その感じ」は、
発声によって表現され、相互伝達されるようになる。

これこそが、カテゴライズの最初の一歩であるはずだ。
さらに同じようにして、具体的な事物にも、特定の発声が決められていく。

水の乏しい環境にある集団が水を発見したときに発した「ウジャ」という音声が
「水」という意味になったかもしれない。

ただ言えそうなことは、
初めに事物の呼称が誕生したわけでは決してなく、
「この感じ」を伝えるために音声が使われ始めたということだ。

日本語でいうなら、「食べる」という音声のうち、
「食べ」という(特定の動作を示す)呼称よりも、
「る」ないし「う」という感情的な意味の方が古くから伝達されていたはずなのだ。

そんな、考えてみれば当たり前の言葉の生い立ちが、
「文法的意味」の研究では除外されているように感じられるのはなぜなのだろう。

脳に平穏を (2007.10.29)

 私たちの感覚の基本は、快いか不快かのどちらかを揺れ動く。
 これはおそらく胎内に小さく未熟な身体ができ始めたころからのことで、母の気分や体調の影響を受けて胎児もなにかを感じていたのではないか。母の腹が目立ってくるころには、胎内で足を伸ばすなどの動作をしていたらしいから、狭くて不快だ、伸ばせば快いといった感覚が、かなりはっきりしていたのではないかと思う。
 そして産み落とされる。
 羊水というぬるま湯でプカプカしていたのに突然乾燥した空気に触れ、助産婦の握力で潰されそうになりながら引っ張られるのだからたまらない。肺にも空気が流入し、得体の知れない匂いに包まれたら誰だって声を張り上げて泣きたくなるだろう。この時、不快はかつてなく決定的なものとして私たちを襲ったはずだ。
 それからいったんは、産湯で胎内に戻ったかのような錯覚に陥りながら最低限度の快さを取り戻し、産着にくるまれたときにはまんざらでもないような顔をしたかもしれない。続いて血糖の低下に不快となり、また母乳を口からのどへ、のどから腹へと流し込んで初めて味わう快感にひたる。
 こうした快不快の繰り返しに、私たちは死ぬまでずっと翻弄され続けるわけだ。

 母がすこぶる健康で精神的にも常に満たされた人であった場合の話になるが、この生に暮らす私たちの究極の願望とは、あの母胎の平穏なのかもしれない。下着、服、靴、風呂、寝床なども、そこに帰った感覚を追い求めての製品が理想なのかもしれない。

 言葉もまた、発達してしまった脳に平穏を与えるためにあるという側面が否定できまい。
 複雑な衝動は整理してはじめて落ち着くことができるのだから、種々雑多な衝動をカテゴライズすべく語や語法が活躍する。

認識の主体と認識の対象、そしてその境目 (2007.9.14)

認識の対象とは、目に映り、耳に聞こえ、手や体に感じ、鼻に匂い、舌に味わうといった五官を通しての、肉体外部の事象はもちろんのことだが、それだけでは決してない。

木の下を歩いていて落ちてきた毬栗が頭に当たった痛みと、原因の特定できない腹痛とは、ともに痛みであるという点で共通している。二つの痛みにおける差異は、体の表面の痛みと内面の痛みという部位の違いにすぎない。

同じようなことだが、私たちはしばしば夢と現実を混同する。悪夢にうなされて「夢であってほしい」と願うことがある。

例えば、朝起きてみたら、大事に飼っていたカブトムシが動かず、死んでいた。
「朝起きた」これは夢か現実か。「カブトムシが動かない」これは夢か現実か。「死んでいる」これは夢か現実か。夢の中でその判別がつかない。あるいは寝起きの現実の中で判別がつかない。
だが同じように、カブトムシの死という認識の対象を前にショックを受けている。私たちはそのような経験をしている。

例えば、小説を読んでいる。滞りのない美しい文体によって、見たこともない美しい風景が伝えられる。自分も現実にそこへ行ってみたいと思う。
どうしてそう思うかといえば、文章によって疑似体験をし、美しい風景を見たような気持ちになったからだ。しかしそれは本当に見たわけではない。見たような気持ちにさせられただけであって、実地にその風景を見れば、作家が文章で描いた風景とは印象の違うこともありうる。小説を読んで見た風景は、作家の主観という色濃いフィルターを通してのものだったかもしれないというわけだ。
しかしそれでも、小説を読んで風景を見たのは確かだ。実際にはなにも見てもいないのに、見たと感じるのだ。

死んだカブトムシ(夢)、(見てもいないのに見た)風景。
それが現実の対象であろうとなかろうと、私たちはこの両者をともに認識の対象としている。

同じことが、日常のあらゆる思考にあり、記憶にもある。
思考して見えてくる未来の結末、記憶の中の亡き祖母の笑顔、それらに思いを致すことで、私たちはそれらを認識の対象とする。

さらに、もっと曖昧な事象もあるだろう。
疲れてひと休み、畳に横になった瞬間、脳裏にふと、「?」が生ずる。
それが「いま休むべきかどうか」に関わる疑問であるのか、畳の感触によるものなのか、さっきまでしていた仕事についてなのか、あるいはなにかの虫の知らせか、まだそれはわからない。ただいえそうなことは、得体の知れないそれがどうやら「?」で表すべき脳内の認識対象であったということだけだ。

そしてさらに、「?」とも「!」ともつかないほどに曖昧なものを、脳内に認識することだってある。

認識の対象に対立してある主体(私たち自身の本質である精神の深奥と思われるところ)とは、以上に見たあらゆる対象を除外した残りの部分である。
そこには事象が発生も存在もしないものと、私たちは感じるともなく感じている。おのれの姿はなきものとして、脳内に去来する事象を含めたあらゆる事象を認識の対象としている。そうしているのが主体なのだ。

日本語文法という認識システムの原理解明へ (2007.9.6)

哲学や言語学などに「時間認識」という前提があるようです。

それは私たちの認識の根底に、意識されない時間認識があるという仮説理論ですが、
この理論はいつしか疑いなきものであるかのように特別な地位を保証され、
そこに踏み込もうとする議論は常に敬遠されているという印象を筆者はもっています。

特に私たちの日本語は、その理論では説明困難な事例に満ちており、
過去の歴史において理論に依存した日本語使用者を生み出してきてもいません。

これはつまり、主たる研究対象を日本語とすることによって、
言語本来の姿に近づく可能性が期待できるかもしれないということです。

当サイトでは、日本語の真の姿、ひいては言語本来の姿に近づくための、
雑記帳のようなものを公開しています。
言語学のどの分野といった枠組みにはとらわれず、
ただ単純に、日本語文法という認識システムの原理を解明しようとする試みです。

要点を簡単にいえば、「過去形」とか「完了形」といった「意味」は、
「〜た」「〜かった」「〜だった」の語形が
しばしばそういった意味にもなるというだけのことであって、
研究が到達すべき原義は「過去」でも「完了」でもないということです。
表層での意味が「過去」とも「完了」ともなるその深奥に、
私たちが知るべき本当の意味があるのです。

当サイトでは、その本当の意味を明確にしていきたいと思います。

*右ナビゲーションの「本当の意味」は2006年9月に書籍原稿のつもりでまとめることを
 試みたものですが、決して全容ではなく、未完成でもあります。

客観的と自認しながら相対的に判断を下すのが人間です。 (2007.9.8)

図1

上の図1におけるAとBそれぞれの背景色に関して、
私たちが下すのは、次の〈判断1〉です。

 〈判断1〉Aの背景色とBの背景色は明らかに異なっている。

〈判断1〉で、私たちは以下のように認識しています。
  • 図1の全体は、1枚のチェック柄であり、そこに影がかかったものである。
  • Aの背景色はチェック柄全体の中で、相対的に青みが強く暗い方である。
  • Bの背景色はチェック柄全体の中で、相対的に赤みが強く明るい方である。
  • Aの背景色は、影がかかっていないためにBの背景色の上下左右に接する背景色よりも
    明らかに明るいが、かといってBの背景色と同色と判断することはできない。
およそそんなふうな認識によって、〈判断1〉が導かれます。

ところが、これを厳密に比較すべく、
図1から「A」と「B」ぞれぞれの正方形部分を切り取って連結してみると、
図2になります。

図2

ここで私たちは次のように判断を改めざるを得ないことになります。

 〈判断2〉Aの背景色とBの背景色は明らかな同一色である。

〈判断1〉における誤認、あるいは錯視は、
私たちが色というものを相対的に見ていることを証明するものです。

後から図2を見せられることによって、
私たちは、驚きをもって〈判断2〉へと改めるわけですが、
それとても図2のように周辺の色を排除して初めて確認されることですから、
私たちが常に相対的な認識によって判断していることは一層確かなこととなってきます。

図1におけるAとBそれぞれの背景色に関わる認識は、
私たちにとっては「客観的」と自認したくなるほどに慎重な認識だったのですが、
いくら慎重であっても、真の客観性を適用させることは困難だというのが現実なのです。

客観的と思っても、なかなかそこで絶対基準に照らした
真に公正な判断をするのは容易でなく、
どうしても相対的かつ場当たり的な判断になってしまう。
それが私たちの日常(あるいは認識能力の限界)なのです。

生まれついてもっている「文法」 (2007.9.3)

人類が生まれついてもっている「文法」なるものがあるそうだ。
ここではその説を正しいとしておこう。
しかしその根本にあるのはやはり「テンス」や「アスペクト」ではなく、
(主体と対象の)対立だ。

この対立は、なにも人類だけにあるものではなく、
犬にもあるし、蟻にもある。
極論すれば、風や波にも、小石にもあるだろう。
簡単に説明すれば、“押し”と“引き”である。

押しとは、我を押し通すことであり、引きとは我を引っ込めることである。
私たち人間どうしのコミュニケーションには、常にこの対立があり、
その対立は、無意識の主体内部から、意識される感情や思考、
さらに他者や外部世界にある存在との関係にいたるまで、
様々な階層ごとに同じように発生し、存在しているものだ。

「る/た」「い/かった」「だ/だった」の原義を特定する10項 (2007.9.1)

1 私たちには相対値は理解しやすく、絶対値は理解しにくい。

私たちの認識そのものが、相対関係の中で成り立っている。


2 テンス・アスペクトの原義はまだ特定されていない。

脳の働きには、思考や記憶のレベルというものがある。論理的な思考や、知識をストックすることがそのレベルにあり、私たちはそれを意識している。
それに対して、感覚的で無意識に使い分ける語というものが確かに存在し、それこそが私たち言語の基本骨格を支配する。

その骨格に、時間の前後を判じ分ける能力が大きく存在しているという理論がある。その理論によって、従来の言語学は支配されてきた。

しかし日本語でも、英語でも、あるいはさらに人工的な中国語でも、「る/た」とそれに相当する一対の語の使い分けを「時間」では説明しきれない。(もし説明しきれる使い分けしかしていない人がいたら、その人はネイティブスピーカーではないということになる。)「時間(テンス)」という理論の力不足を補完すべく「アスペクト」という概念を持ち出してもやはり説明しきれない。

そもそも同一の対の語に「テンス」と「アスペクト」さらに例外という二重三重の基準が複雑に働いているとする理論は単なる空想の産物なのだ。実際、日本語が母語なら誰もそんなことはしていない。それでも「テンス」「アスペクト」に固執するのであれば、それはあくまでもそのような思想への支持表明でしかなく、一般の私たちの素直な実感とは敵対してしまうことになる。(青字:2007.9.10 訂正)

テンス・アスペクトというのは、それら語形変化でそのような客観的意味を伝達可能ということにすぎない。しかし実際の素朴な言語運用において伝達されるのは、それら語形変化の原義なのである。現実の用例が必ずしもテンス・アスペクトに適合しないという厳然たる事実から、誰しも目をそらすべきではないだろう。この事実の表す意味は、テンス・アスペクトより深いところに原義があるということに他ならないのだ。

言語にはもちろん普遍的な文法というものがあることだろう。しかしだからといって、他言語に主眼をおいた研究成果とされるものによって私たちの日本語が支配されるいわれはないだろう。(青字:2007.9.10 加筆)


3 原義は相対関係にある。

テンスにせよ、アスペクトにせよ、そこには絶対基準を仮定し、その基準に従うことが仮想されている。

しかし、絶対基準は、私たちが生まれついて持っている基準ではない。絶対基準というものの存在に納得するのは、相当に成長してからのことであって、それは一人前の大人であっても、日常の思考で十分に活用することができずにいるのが普通である。

その事実からみて、無意識下で選択決定される「る/た」の原義が絶対基準であるとは到底考えられない。それはつまり主観的(主体)基準であり、何らかの相対関係に発するものと見なすのが自然である。(青字:2007.9.10 訂正)


4 主体と対象

認識と発話を行う主体がある。主体による認識は、ありとあらゆる対象を認識する。
主体と対象という、対立する両者があり、そこに相対的な関係が存在する。


5 主体

主体とは、認識と発話を行う主体(認識と発話を実行する脳の分野に指令を出す主体)を指す。

これは、認識者の脳であるとか、脳のどの部分であるといった、客観的観察によって導き出された実体ではなく、私たち一人一人、誰にでもに共有される実感としての主体である。

さらにこれも極めて重要な事実であるが、主体は通常、主体内部に事象の発生や存在はないと認識している。これは、思考や記憶(あるいは思考や記憶の実行)をおこなう脳(脳の中の活動が意識される領域、あるいは脳の中の意識される活動)への指令を出すのが主体であって、主体自身による指令(指令などの行為)は通常、意識のおもてに出ないと内省できるためである。(青字:2007.9.10 加筆修正)



6 対象

対象とは、認識の対象となる事象を指す。
これには、「思う」「気がする」「感じがする」といった言語表現に表れる、認識者自身の思考や感情といった事象が含まれる。これら思考や感情に類する対象(脳内に認識される事象)は、認識者外部の世界に発生するあらゆる事象と同列に認識されているというのが、私たちの実感としての事実である。(「(雷が)光った!」と「(考えが)ひらめいた!」は、共に認識の対象。)

Cognitional Subject and Cognitional Object


7 認識の成立

主体と対象は対の関係(対立する関係)にある。この対が成り立つところに認識が成り立つ。

主体と対象の対立において、考えられる対立のあり方をおよそ挙げてみれば、(1)優劣、(2)主従、といった感じ方となるあり方が考えられる。(青字:2007.9.10 加筆修正)



8 As

「る/た」における「る」、「い/かった」における「い」、「だ/だった」における「だ」によって伝えられる対立(主体と対象の対立)のあり方は、主体が対象に対して主導的ないし優位であると感じられる対立のあり方であると認められ、そこに例外はない。この対立のあり方を「As」とする。(青字:2007.9.10 加筆修正)


9 Aw

「る/た」における「た」、「い/かった」における「かった」、「だ/だった」における「だった」によって伝えられる対立(主体と対象の対立)のあり方は、対象が主体に対して主導的ないし優位であると感じられる対立のあり方であると認められ、そこに例外はない。この対立のあり方を「Aw」とする。(青字:2007.9.10 加筆修正)


10 「る/た」「い/かった」「だ/だった」の原義:請け合いと受け止め

AsとAwは対の関係にある。この対をなす認識形態(意識のおもてに出ない認識の形式)は、あらゆる認識の根幹部分にあると見られる。(青字:2007.9.10 加筆修正)
As(Assurance):請け合い
Aw(Awareness):受け止め


発話例
Cognitional forms
(認識の形態)
Assurance
(請け合い)
Awareness
(受け止め)
Utterance
(発話)
omou
hanasu
nomu
aru
miru

tanoshii
aoi

genkida
jibunda

omoeba
hanaseba
nomeba
areba
mireba

tanoshikereba
aokereba

genkinara
jibunnara

himana(toki)
omotta
hanashita
nonda
atta
mita

tanoshikatta
aokatta

genkidatta
jibundatta

omottara
hanashitara
nondara
attara
mitara

tanoshikattara
aokattara

genkidattara
jibundattara

himadatta(toki)

映画の最中に別のものを見続けたこと (2007.9.21)

夜の9時から寝床で白黒映画を見ていた。
静かな映画だったので眠くなったが、それでも完全に眠りはしなかった。
眠りはしなかったが、映画とは別のものを見続けてもいた。
そのほとんどはすでに記憶にないが、図のようなものをはっきり見たことを忘れなかった。下を向いた赤くて鋭い三角だ。

中央になにかあったが、ボタンといったものでなく、ラベルのようなものだった。同じような三角は他にも出てきて、これはその中のひとつ。なにをするものかといえば、自殺をするためのものだった。

「自殺用の三角」という、これを指す言語記号が、しっかりと頭に残った。これ以外の三角は自殺用ではなかったと思う。
なぜ「自殺」かといえば、恐らく映画の内容となんらかの関係があったのではないかと思われるが、映画の内容も一通り記憶しているので、そこからいえることは、映画に「自殺」というキーワードが出てこなかったということだ。もっとも、うとうとしてもいたから、絶対に出てこなかったとも言い切れないのかもしれないが、それは映画が何であるかわかっているから検証可能となる。

いずれにしても、こういうことはよくあることだ。(記憶していてこのように書き記すことは滅多にないが。)目の前に映画という認識の対象が展開しており、それを認識している一方で意識が虚ろになり、まったく別の対象を認識している。映画は客観的に誰にでも等しく認識されるが、この三角は自分だけが認識する。しかし映画も、三角も、自分にとっては共に等しく認識の対象となっている。
 『冷血(In Cold Blood)』(1967年 リチャード・ブルックス監督・トルーマン・カポーティ原作)