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日本語文法 研究ノート『本当の意味』


第二章 認識の対象と、主観

 「ヨビカタ」と「ゴビ」について、ここからは詳しく見ていこう。

1.ヨビカタは《対象》を伝える

「象」「キリン」「虎」「鼻」「首」「縞模様」「草むら」「キャベツ」「手すり」「排水溝」

 これは動物園でぼんやり目に付いた物事のヨビカタだが、すでに前章で見たように、私たちはこれらヨビカタを知識として頭にいくらでも蓄積し、必要に応じて拾い出しては使っている。豊富にあれば「ボキャブラリーが豊か」であると褒められ、少なければ、「ボキャブラリーが貧困だ」といわれる。
 努力すればきっといくらでも新たに増やせるのだろうが、その反面、

 「そうそう、それ何て言ったっけ? ほらあれ……だめだ、思い出せん。」

 などと忘れてしまうヨビカタも出てくる。記憶力のある人ほどたくさんおぼえられるだろうし、いくら記憶力があっても、使わない環境に身を置くことで増やせないというケースもあるだろう。

 また、ヨビカタの伝える内容とはさまざまな事柄だが、その「事柄」とは何かをもっと正確にいえば、《認識の対象》ということになる。
 これはもっと短く、《対象》とだけ言ってもいいらしい。《対象》は哲学的な言葉で、《客体》とか《客観》とかも同じような意味になるようだ。

 例えば、

 「象の首って見える?」

 という発話があったとする。
 この発話には、「象」「の」「首」「って」「見え」「る」という六つの単語があると見られるが、この中で《認識の対象》となっているのは「象」「首」「見え」の三つ。それぞれがおよそ次のように認識されている。

 象 ←(鼻が長くて動物園で一番大きいあの動物)
 首 ←(頭と身体をつなぐその部分)
 見え←(視覚によるこの感覚)

 このように《認識の対象》を伝える語がヨビカタだということになる。

2.主観と向かい合う対象

 残る「の」「って」「る」だが、これらはどう見ても《認識の対象》を伝えてはいない。
 《認識の対象とならない何か》をその内容とし、ヨビカタではない単語で伝える。その単語のことを「ゴビ」としてみたが、ヨビカタと互いに補完し合うらしいという、その関係を頭に入れた上で、わかりやすい方の《対象》とヨビカタについてもう少し見てみよう。

 物事を認識する私たちは、自分の《主観》が《対象》と向き合っていることを常に経験している。この対立関係はおそらく、私たちがおぎゃあと生まれたその時から始まっていることなのだろう。

 母胎でぬくぬくと過ごしていたところを、ある日突然、窮屈な産道を無理やり押し出され、冷たい外気に晒される。呼吸器官に初めて空気が吸入されるが、私たちは不快に顔を歪め、そこで産声をあげる。産声といえば聞こえはいいが、当人にとっては大変な事態だった。

 《主観》が始まるのがどこからだったのか、まるで憶えてはいないが、《対象》となる「外気」を感じたときには、きっと始まっていたことだろう。すぐさま助産婦さんの手に掴まれた感触があり、呼吸や発声といった自分自身でおこなうこと、産湯につかる感触、産着に包まれた感触、などなど…、きっとなにがなんだかわけがわからないパニック状態だったのだろうとは思うが、同じような局面、似たような感覚が繰り返されながら、《対象》は次から次へと増えてゆく。

 《対象》とはまず、その認識者である私たち自身に《主観》があってはじめて認識されるものだ。
 つまり《主観》がなければ、認識者にとっての《対象》は存在しないことになる。《主観》あっての《対象》であり、《対象》が認識できればこそ《主観》もあるということになる。

 また、右で見たように、自分自身ですることやることも《対象》に変わりはない。産声をあげた私たちはきっと、自分の声に少なからずびっくりしたはずだから、生まれたときから、自分自身のすることも認識の《対象》だったはずだ。
 外の世界で起きること、誰か他の人がすること、自分が他の人にされること、そして自分がすること、さらに自分が考えること、感じること、思うこと…(もっと深く)…もやもやすること、何となく頭をよぎること……どんなことでも、私たちが、そういうことがある/あった、そんなことを感じる/感じたと認識すれば、それはみな全て、《認識の対象》となる。


 だから私たちの《主観》とは、「思考」と同じではない。私たちが自分の頭で考える「思考」もまた、「思う/思った」「気がする/気がした」というように、私たちの《認識の対象》となっているからだ。

3.ヨビカタの選択は社会に決められている

 例えば、「発声器官による音声」という《対象》があれば、私たちは「声」というヨビカタを選んで他者に伝えているわけだが、ここでは、その選び方についても確認しておきたい。

 《対象》に対応するヨビカタの選び方については、私たちが自分で自由に選んでいるようにも思えるが、実はそうではない。

 「太郎はどこ?」
 「さっきそっちの方で声が聞こえたけど。」

 この会話に出てくるヨビカタは次の通り。

 「太郎」「どこ」
 「さっき」「そっち」「方」「声」「聞こえ」

 これら全部で七つのヨビカタは、七つの《対象》を伝えている。

 ヨビカタ←(対象)
 太郎  ←(特定の人物)
 どこ  ←(不特定の場所)
 さっき ←(現在に近接する過去の時点)
 そっち ←(自分の側でない側)
 方   ←(方角)
 声   ←(発声による音声)
 聞こえ ←(聴覚)

 《対象》とは、誰の主観にも共通して客観的に認識されるものであるため、《対象》を伝えるヨビカタは、自分で主観的に選ぶことはできない。

 例えば「現在に近接する過去の時点」という《対象》なら、ヨビカタは「さっき」「さきほど」「今し方」などが選択可能だが、選択が許されるのは常に《同義語》に限られる。
 同じように「自分の側でない側」という《対象》なら、「そっち」「そちら」という同義語からだけ選択が許される。「太郎」なら「次郎の兄」だとか「我が長男」だとかいった言い替えも可能となるかもしれないが、それもみな、正確に同一人物を伝えるヨビカタや言い表し方に限られる。

 このように、《対象》に対応するヨビカタの選択というものは、たとえそれが自分の認識した《対象》であっても、それを話の相手の認識にも同一のものとして正確に伝えなければならないため、社会や人間関係の中で、「この対象ならこのヨビカタを使う」と、約束事として厳しく決められているのだ。

 つまり、ヨビカタの選択を決定しているのは私たちの主観ではなく、《同じ言葉を話す人々と社会》ということになる。

4.心の機微や思いのようなもの

 《対象》、ヨビカタというものについて詳しく見てきたところで、《対象》を伝えるヨビカタだけでの会話というのをやってみよう。これがきっとゴビを特定する上でも役に立つと思う。

(ヨビカタだけでの会話)
 「太郎、どこ。」
 「さっき、そっち、方、声、聞こえ。」

 ゴビを使わずに、ヨビカタだけで会話をすればこのようになるわけだが、もし私たちがこの会話のようにゴビの使用を禁じられたらどうだろうか?
 なにやら電子辞書の音声機能か何かのように機械的で、自分が意思を持った人間であることを押し殺せと言われたような不自由さを感じるのではないだろうか?

 不自由と感じるのは、ヨビカタだけでは自分の言葉だという実感がないから、ということが大きいだろう。3.で見た通り、ヨビカタは話し手自身が主観的に決めるようにはなっていないわけだし、認識した《対象》を、単純作業のようにヨビカタに変換しているだけのことだからだ。

 では、ゴビはどうだろう。先の会話と同じ内容を伝えなければならないにしても、ゴビはいくらでも異なるものを使うことができそうだ。

(1)
 「太郎はどこ?」
 「さっきそっちの方で声が聞こえたけど。」

(2)
 「太郎はどこだ?」
 「さっきそっちの方だったか、声が聞こえたが。」

(3)
 「太郎どこだろ?」
 「さっきそっちの方? 声は聞こえたね。」

(4)
 「太郎ったらどこ?」
 「さっきそっちの方かな、声は聞こえてたな。」

(5)
 「太郎どこだ?」
 「さっきそっちの方で声とか聞こえたし。」

 使われているヨビカタは、(1)〜(5)どの例でも同じだから、内容となる《対象》は、どの会話でも変わりない。
 ところがゴビは見ての通り、表情が実に豊かだ。
 「太郎、どこ。」と、あえてゴビなしでも十分伝わるところを、「太郎は、どこ。」「太郎ったら、どこ。」など、東京的な言い方だけでも「太郎」のあとに異なる色合いのゴビをつけることができる。

 そして(1)〜(5)の会話例では、「ヨビカタだけでの会話」にはまったく感じられなかった、話し手の個性のようなものも豊かに感じられる。
 実際の声色や抑揚を聞かなくても、活字のひらがなを読んだだけで、《心の機微や思いのようなもの》が、かなり伝わってくる気がするのだ。

5.主観

 《心の機微や思いのようなもの》と感じられたゴビだが、その伝える内容について、もっと正確に特定していこう。

 私たちの言葉の中には、大きく分けて二種類の単語、《対象を伝えるヨビカタ》と、《対象を伝えないゴビ》とがあることを見てきた。
 (また、その中間かと思われるような単語もあり、使う状況によってヨビカタ的な内容を伝えたり、ゴビ的な内容を伝えたりする。例としては、「五」の1.で「〜てしまう」と、4.で「ちょっと」を扱う。)

 ごく単純に考えてみよう。
 ヨビカタは《対象》を伝える。
 そしてゴビは、《対象》とは別の《それ》を伝える。
 《それ》は《対象》でないとわかっている。
 となれば、あとには《対象》と向き合う私たち自身の《主観》しか残されていない。

 《対象》には、外の世界や話の相手だけでなく、私たち自身のすることや思うこと、私たちが《認識の対象》とするありとあらゆることが含まれる。私たちは、そのありとあらゆることを認識してヨビカタを選ぶのだが、選び方を決めているのは言葉の通じる社会や人々で、私たちの主観ではない。《対象は客体》であって、《ヨビカタは借り物》にすぎないわけだ。

 それでも、認識して話すという日々の行為は、私たちの一人一人がおこなっていることだ。つまり、《主観》は私たち自身として、確かにここにある。
 確かにここにある《主観》でありながら、ただ決められた通りに《対象》をヨビカタに変換するばかりでは、話の相手に、自分という認識者、つまり《主観》を十分伝えることができない。これについては、先の「ヨビカタだけでの会話」に「不自由さ」を感じたとおりだ。
 そしてこの「不自由さ」が、ゴビの自由な使用によって解消されるのもまた事実なのだから、ゴビの使用とは、《主観の発露》であり、ゴビとは《主観》を伝えるものであると、そう見るよりほかにないだろう。

 単語の類別  ヨビカタ  ゴビ   ヨビカタ・ゴビの中間
 伝える内容  《対象》 《主観》 《対象》または《主観》

 もちろんこれは、最も単純化した分類となるが、一番の基本として、この二大別した単語の伝えるところとは、そういうことと見てよいだろう。

6.認識のあり方

 ただちょっと、《主観》と《対象》では漠然としすぎていると思われる向きもあるかもしれない。そこで次のように考えてみよう。

【どんな言葉にも内容があるということ】
 まず、どんな言葉にも必ず、伝える内容がある。内容が伝わらなければ、それは言葉ではなく、ただの発声ということになる。言葉が言葉であるのは、そこに伝える内容があるからにほかならない。

【言葉の内容とは認識だということ】
 次に、言葉で伝えられる内容となるものを《認識》と総称しておこう。
 認識者である私たちは、早い話が様々な《認識》を言葉にして、誰かに伝えたり(聞かせること、読ませること)、自分自身に伝えたり(言葉で考えること、独り言、筆記など)しているということだ。

【認識には、対象と、対象でないものとがある】
 そしてその言葉は、大きく二つに分けられることを見てきた。
 そのひとつが、認識の対象を内容とする「ヨビカタ」だった。
 そしてもうひとつの「ゴビ」の内容は、認識は認識でも、《認識の対象ではないもの》ということになる。

【認識それ自体、認識のあり方、主観のあり方、認識の形式】
 認識は認識でも《認識の対象ではないもの》、といったら、《認識それ自体》ということになるだろう。
 《認識それ自体》とは、私たちの主観が認識を行うとき、つまり対象を認識するときに、認識自体がどうあるかということだ。
 それを《認識のあり方》と呼んでおこう。認識自体がどうあるかということは、主観自体がどうあるかといっても同じことと理解されたい。
 また、《認識の対象》を《認識の内容》と呼び換えるとすれば、《認識のあり方》は《認識の形式》と見てもいいかもしれない。

【意識されなくても発話されるということ】
 しかしここで、そんな意識されない《認識のあり方》というものが、言葉になるのか? 全ては《認識の対象》であってこそ、言葉になるのではないか? という疑問をもたれる向きもあるかもしれない。
 しかしその点については、たとえば、次のような事実がある。

【「わあ」の中に対象は含まれないということ】
 私たちは何かに驚いたとき「わあ」と発する。しかしこの「わあ」という言葉の中には、自分の「驚き」という《認識の対象》は含まれない。
 「驚き」というのは感情の一種だが、すでに述べたように、自分の感情というものもまた、《認識の対象》のひとつなのだ。したがって、もし自分の感情を《認識の対象》とした場合であれば、私たちは「驚いた」という。
 それに対して、反射的に「わあ」と発した場合、まだ自分の感情は、《認識の対象》として言葉に変換されていない。つまり「わあ」の中には、《認識の対象》は含まれていないのだ。

【主観の発露が認識のあり方だということ】
 だったら「わあ」は何を内容として伝えるのかといったら、それは私たちの《主観の発露》と見るべきもので、《認識のあり方》としかいいようのないものだろう。

【客観的な発話以前の段階があるということ】
 たとえば、トンネルを抜けると一面の雪景色だったので、それを見て「わあ!」と発したとしよう。
 発したのはなぜかといえば、それは確かに、景色に驚いたからにほかならない。
 だが、「驚き」という感情をひとつの《対象》として自分自身で認識し、「私は驚いた」というように、客観的内容=対象を含んだ発話ができるようになる前の段階というものがある。
 従って、「わあ。驚いた。」という順番はあっても、その逆に「驚いた。わあ。」ということは通常あり得ないのだ。万が一それがあったとすれば、前の「驚いた」の後に、新たな別の衝動が発生して「わあ」といったことになる。

【主観に発生する衝動が言葉となり認識のあり方を伝えるということ】
 つまりこの「わあ」は、主観に発生した衝動が声になったものだともいえるわけだが、「声」とはいっても、これも立派に内容のある言葉だと見るべきだろう。それは、「わあ」によって認識がどんなあり方だったのか、他者へ正確に伝えられるからだ。
 また、「わあ」は至って感情的な言葉だが、もっと冷静な言葉ももちろんある。
 「わあ」と同じ「感動詞」とされるものの中には、「うん」「ええ」「はい」「いえ」「いや」などがあるが、これらも《認識の対象》を内容とはせず、単に「うなづくこと」や「かぶりを振ること」といった動作への衝動と同じ衝動が言葉になったものと思われる。
 そのような衝動を伝えることが、《認識のあり方》を伝えることになっていると見ることができる。

【ゴビの伝えるものも認識のあり方だということ】
 以上に見たように、私たちは《認識のあり方》を確かに伝え合っている。
 従って、ゴビが《認識のあり方》を伝えるといって、決して意外な話ではない。

7.ここまでのまとめ

 ここまでを表にまとめてわかりやすくしておこう。
 この表の中には、ヨビカタを「意義素」、ゴビを「形態素」とする用語も加えた。


8.「が」の伝える主観

 ゴビとは《主観》であり《認識のあり方》であるという視点に立つことで、実際にゴビの伝える内容が説明しやすいという、具体的な例をひとつ見ておこう。

 「どうしたの?」
 「ちょっとお腹‥‥」

 「(対象)」の伝える内容は、主観が「(対象)を指し示す」という《認識のあり方》だと説明できる。

 辞書などを見れば、「が」というのは「格助詞」とされ、「主格を表す」などとされているが、私たちが日ごろ実際に使っている「が」とは、使い方を間違える人がいないのを見ての通り、そんな難しいものではまったくないし、誰も「が」を「格助詞」などという恐ろしげなものとは実感できない。
 「主格」ということは「主語」ということだろうが、「が」を使ったからといって、必ずしも「主語」を表そうというばかりでもない。
 「が」を使う私たちは、《認識のあり方》を伝えているだけであって、そうすることが、「主語」を表すことも可能にしていると考えるべきで、場合によっては「主語」など表さないということもあるわけだ。
 「お腹が」といえばお腹を、「頭が」といえば頭を、「空が」といえば空を、「あの人が」といえばあの人を、それぞれ主観が指し示す、そういう《認識のあり方》が「が」なのだと見れば、「が」の伝える内容については十分説明できたといえるのではないだろうか。

 ただここで念のため、注意しなければならないのは、この「指し示し」が、《認識の対象》ではない点だ。
 認識しているのは「お腹」だけであって、「指し示し」という《主観》自身ではない。すでに見たように、「わあ」が「驚きの感情」という対象を内容としていないのと同じだ。
 そもそも、「が」の意味を説明しろと言われて誰もが困ってしまうというのが事実だったのだし、「が」の伝える「指し示し」という《認識のあり方》は、発話のたびにいちいち意識されてもいない。
 そのように、意識されるかされないかという境目があって、《認識のあり方》は、《認識の対象》とは、はっきり区別されている。