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日本語文法 研究ノート『本当の意味』


まえがき とても深くて、とても単純な意味

 私たちは日本語の中に生まれてきた。
 生まれたときにはすでに周囲の人々の話し声が聞こえていた。その中で最初はせいぜい、おぎゃあおぎゃあと泣くことしかできなかったが、それから何か月か家族の言葉を聞くうちに、それを真似てか、日本語にならない喃語を話すようになったり、頻繁に耳にする様々な言葉の中から、断片的に言葉を発するようになったりしていったようだ。
 そうしていつの間にか、この広い社会にも通じる、日本語の基本を習得していった。

 「ね?」
 「うん。」

 短いやりとりだが、これもきっと日本語の基本なのだろう。「ね?」に込められた心、「うん。」の伝える心が、なんの混乱もなく理解できるということ、それができなくては、日本語はカタコトどころか皆目わかわないということになってしまうが、私たちは物心つく前から、それをちゃんと理解してきた。

 「わかった?」
 「わかるよ。」

 ここには「わかる/わかった」という、言葉の変化がある。
 「る/た」の部分が変わるわけだが、もしあなたが日本語を母語として生まれ育った人なら、この使い分けにも、苦労したり混乱したりといった経験はないことだろう。

 しかし今ここで、「る」と「た」の違いを説明してくださいと頼まれたらどうだろう。説明となると、誰でも簡単にはいかないものだ。
 「る」は「現在形」で、「た」は「過去形」だろうと思われる人も少なくないかもしれない。でもそれは、学校の「文法」などが言い始めたことで、日本語で暮らしている私たちの実感に一致するとは限らない。
 たとえばこんな例がある。

 宝物のペンライトがつかなかったので弟が父に電池をくれという。父はひきだしから電池を出してきて、兄に交換してやれと渡す。兄はペンライトから古い電池を取り出して新しいものに交換してやる。
 スイッチを入れると先端の電球は明るく光り、弟が「ついた!」といって喜ぶ。父が「ついたか?」と聞くと、兄は「つくよ。」と答える。

 この文に出てくる「つく/ついた」はどうだろう。
 弟の「ついた!」、父の「ついたか?」、兄の「つくよ。」を、すべて逆にして、弟が「つく!」といって喜んでもよし、父が「つくか?」と聞いてもよし、兄が「ついたよ。」と答えてもよい。

 スイッチを入れると先端の電球は明るく光り、弟が「つく!」といって喜ぶ。父が「つくか?」と聞くと、兄は「ついたよ。」と答える。

 いったいこれのどこに、「現在」や「過去」があるというのだろう。

 「現在/過去」というこの考え方は、実は私たちが中学に入って英語を習い始めたころ、「walk/walked」などという語形の変化を学習し、そこで「〜ed」は「過去形」だから日本語の「〜た」と同じだと教えられたところあたりから始まったものではないだろうか。
 それまでせいぜい小学生だった私たちは、「過去形」などというものを意識したこともなかったし、そんなつもりで「〜た」を使ってきたわけでもない。もちろん、親に「た」の使い方を教えられたこともないし、使い方を間違えて誰かに指摘されたこともない。
 学校を卒業して大人になっても、「現在/過去」などという基準に照らすことは、ほとんどしないで暮らしているのが普通だし、日常の会話の中でなら、ここは「る」というべきか、「た」というべきか、などと迷ったことはない。

 ところが不思議なことに、文を書くときには迷うことがある。たとえば先にあげた文なら、次のようなことになる。

 「ペンライトがつかなかったので」は、「つかないので」と書くべきか
 「電池をくれという」は、「いった」と書くべきか
 「交換してやれと渡す」は、「渡した」と書くべきか
 「…といって喜ぶ」は、「喜んだ」と書くべきか
 「兄は…と答える」は、「答えた」と書くべきか

 どの部分なら「た」が使えて、どの部分なら使えないのか、それとも、どの部分でもすべて「た」を使ってよし、使わなくともよし、ということなのか。
 このような、作文における「る/た」の迷いは、おそらく文豪と呼ばれた作家にもついて回ったことだろう。
 何も考えないで思ったとおりに「る」とし、「た」とすれば、それで思った通り、感じる通りが表現されるのに、いったんどっちだろうと考えはじめると、どちらが適当なのか、簡単には決められなくなってしまう。

 そしてここにも、重大な事実がある。
 作文におけるこのような「る/た」の迷い、これもやはり「現在」か「過去」かといった、「文法」とは、まるで関係がないのだ。

 専門家による「文法」の研究では、「非過去/過去」、「未完了/完了」というような、なんとも難しい二重の基準によって「る/た」が決まり、さらに特別な例外的用法もあるという、非常に込み入った説明をすることが定説化しているらしいが、これも私たちの実感とはまるで無縁だ。
 そんなわけだから、「る/た」などという、日本語を使うとなれば基本中の基本で、私たちの誰ひとりとして迷わず話し、迷いつつ作文しているような「活用語尾」の意味は、まだ解明されたことがない。

 そこで、そうした日本語の最も基本的な部分について、きわめて単純に説明しようというのが、この本の目的となる。

 申し遅れたが、筆者は日本語の研究を職業とはしていないし、難しい学会にも属していない。
 東京の美術大学を出て広告の仕事もしているが、台湾に渡って日本語教師の修行を積み、日本語を勉強中の学習者と十年の結婚生活を経験し、その間に台湾に住む台湾の人々と、日本に来た中国の人々に日本語を教えてきた日本語教師でもある。

 日本語の研究については、日本語学習者の直面するさまざまな困難を知る努力、というよりも、知り尽くさざるを得ない生活によって長年独自に続けてきた。
 「独自に」というのは、諸々の研究論文に教えを請うという姿勢が途中から続かなくなってしまったためだ。
 文法関連の専門書に見る研究は、とても客観的ですばらしいものも多い。しかし「る/た」など、説明しづらい部分というのは、自分には全てが主観であるとしか思われない。だから内省によって主観を論じることが不可欠と思ったが、それを主とする研究は見当たらなかった。
 どうやら、そんな馬鹿なことは誰もしない、ということでもあるのかもしれない。

 馬鹿なことを始めてから、かれこれ十八年が経った。
 この無謀な試みは、それでもかなり前進したのではないかと思う。主観がどんなシステムとなって言葉に表れているか、その最も基本となる部分が、かなり特定できたのではないかと思っている。
 そしてそこから伝えられる、とても深くて、とても単純な意味を提示してみたい。提示する意味が本当の意味かどうかは、お読みくださるあなたの日本語経験に委ねることになるだろう。

 どうか是非、じっくり読んで確かめていただきたいと思う。