縄文ネット アーカイブ



中学生時代の自転車一人旅

〜30年も昔の、古い記憶を辿ります。〜

1975年7月23日
自転車は、前輪と後輪が簡単にはずせるようになっているので車のトランクに載せ、父の運転で京都まで送ってもらっての出発でした。昭和50年7月23日、中学3年生の夏休みが始まってすぐのことでした。
ユースホステルの会員になったのは、昭和49年(1974)の9月9日でしたから、この自転車一人旅の時にはすでに会員歴約1年というところで、なにやら自信満々でした。自転車は、3万円もするクロモリのフレームを買ってもらって、それに自分でパーツを組み付けたツーリング仕様で、大きめのフロントバッグに着替えからなにから詰め込んで、ペダルも軽く、京都から神戸市垂水区の「たるみ海岸ユースホステル」を目指したのが一日目でした。
この区間はまだ国道1号線からでしたから、さほど遠くへ来た気はしませんでしたが、道をたずねると、教えてくれる人の言葉は関西弁で、それがぞくぞくするほど嬉しかったのを憶えています。
[たるみ海岸ユースホステル(私営、現在「たるみユースホステル」?)・1泊2食付¥1,000]
ユースなので、ドミトリー式の部屋なんですが、旅行をしているルームメイトはほとんどが大学生でした。

1975年7月24日
神戸からは、確かフェリーに乗ったんじゃないかと思います。(*追記:思い出したんですが、船に乗ったのは、明石からでした。)このへん、曖昧です。淡路島に渡って、島を縦断しました。
淡路島の民家は、瓦屋根がとても立派で、こういうのは静岡の方にはないなあと思いました。
それから鳴門海峡を、この時は確か小さい船だったと思いますが、自転車を積んでもらって渡りました。
鳴門の渦潮が見たかったんですが、船はそれを見せてくれました。どの程度のものを渦潮というのかわかりませんが、確かに、海面が少し渦を巻くのを見ることができました。
[鳴門ユースホステル(公営、現存せず)・1泊2食付¥900]
ユースのヘルパーさんが、阿波踊りの時に来れば、「鳴門ユースホステル連」というのを組んで揃いの法被で参加できるんだと話してくれました。いつかきっと来ようと思って30年が経ちました。公営の鳴門ユースホステルも、今はもうなくなってしまったようです。

1975年7月25日
3日目でもう、むき出しの膝が日焼けして痛いくらいでした。この日も暑く、前身汗だくになりながら高松を目指しました。自転車用の水筒もあるんですが、自動販売機のコーラなんかが飲みたくなります。当時缶入りが50円だったと思いますが、一日に一度や二度は買って飲んだと思います。
この日は途中に喫茶店があって、あまりの暑さにちょっと休みたくなり、通り過ぎたのを確かちょっと引き返して店に入りました。
「フラッペ」というメニューがあって、要するにかき氷だったんですが、それを注文したら、やたらとでかいのが出て来て、汗まみれのシャツに冷房もかなり効いていましたから、全部食べ終わって店を出るころには寒くて震えました。これはよく憶えています。
[栗林ユースホステル(私営、現存せず)・1泊2食付¥1,150]
ここは畳の部屋で、カナダの東の端のなんとかいう島から来たという大学生の人と同室でした。英語も少しは習っていたので、会話を、するにはしたんですが、ほとんどだめでした。
ユース経営者のおじさんが、たった二人の客だった私とカナダ人を近所の売り酒屋に連れて行ってくれました。
おじさんはカナダ人に「ジャパニーズ・コーヒー」と言ってビールを飲ませてました。私はコーラだったと思いますが、店の中で立ったままそれを飲んで、またユースに戻りました。おじさんは自分が飲みたかったんだろうと思いますが、上機嫌で、案外楽しかったのを憶えています。

1975年7月26日
渡し船だかフェリーだったか、これもよく憶えてないんですが、高松から小豆島に渡って、島の最高峰の寒霞渓を上りました。けっこう急坂で、時々停めて休もうとすると虻が飛んできます。これには参りましたが、おかげでさほど時間もかからず頂上まで行けたんじゃなかったと思います。
下りはすっ飛んでいくようにあっという間だったはずです。バスなど追い越したような記憶がありますが、これも曖昧です。
港で何かの看板に気を取られたような、これも曖昧な記憶がぼんやりとあるだけです。
小豆島から直接だったかどうかわかりませんが、姫路に渡って、姫路城に行きました。美しい城なので、またぜひ行きたいと思いながら、これも30年経ってしまいました。
姫路から遠くないところだったと思いますが、兵庫県の揖保郡御津町室津というところにあるお寺のユースホステルに泊まりました。
[浄運寺ユースホステル(寺、今もあり)・1泊2食付¥1,100]
ここでは、ちょっとかわいい大学生のお姉さんとお話ができました。
出されたほうじ茶が珍しかったので、「静岡じゃ、こういうお茶は飲んだことない。」と言ったら、「そういうこと言うものじゃないわよ。」と諭されました。
美人じゃなかったですが、なにぶん私は男子校でしたし、翌朝別れてからとても切なくなりました。

1975年7月27日
この日の記憶はほとんどありません。どこをどう走ったのか、地図でも広げて想像するほかありません。大阪に隣接する尼崎市の東園田町3丁目というところまで行きました。
[園田YH(私営、現存せず)・1泊2食付¥1,100]
ここはユースホステルといっても、おばあさんが一人住まいの民家で、若い人たちが泊まってくれるのが楽しくてやっていたんでしょうね。旅の宿という感じはしませんでした。

1975年7月28日
出発点だった京都まで走って、迎えに来てくれていた父の車で静岡まで帰りました。
日常とかけ離れた自転車での一人旅が終わって父の顔を見たときには、寂しいやらありがたいやらで、妙な感情の高まりを覚えました。

かわいい子には旅をさせよと言いますが、自分の子供が今年は中学に入って、もしそのうち一人旅がしたいと言ったら、なんて考えても、ちょっと許してやれそうな気がしません。
女の子だから、という言い訳はできそうですが、自分は本当にやりたいことをやらせてもらってきましたから、父には感謝するほかないと思います。

1974年版のユースホステルハンドブックによれば、当時は日本全国に580を超えるユースホステルがあったそうです。
それが2005年現在、日本ユースホステル協会のホームページで見ますと、約350となっています。

私はその後も、ヨーロッパに延べ8カ月も旅をしたので、若いころ、ユースホステルには世話になってきたんですが、日本でこんなに施設数が減っている現状を見ますと、旅行、というか、旅というものが、日本人にはますます特別なものになってきてやしないかと、ちょっと心配になります。

以上、当時の料金については、ぼろくなってますが手元にある1974年版「ユースホステルハンドブック」によるものです。ここで紹介した1975年当時は、1年経ってますので、それよりも百円ぐらい値上げをしていたかもしれません。
「ユースホステルハンドブック」には広告も載っていまして、どれも時代を感じさせます。「小西六」(←ATOKが変換せず)とか、サクラカラー(←サクラを桜と変換)とか、懐かしい名前が出ています。
(050527)