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静岡市駿河区中島

静岡(しずおか)市と清水(しみず)市が合併した新・静岡市は今年から日本一小さな政令市となり、静岡市内を流れる安倍(あべ)川の河口東岸にある我が中島(なかじま)は駿河(するが)区となったが、行政区がどのように変遷してきたものか興味が湧いたので、昨日静岡県立図書館で調べてみた。

まず、より広域となるが最も古い記録には、「廬原國(いはらのくに)」というのがあったらしい。
静岡県庵原(いはら)郡(富士川町・蒲原町・由比町)というのが今でもあるが、その「庵原」である。
これには現在の志太(しだ)郡を含み、現代でも一般に言うところの「駿河」の前身というべき地域であるらしい。「廬原國」のころには「安倍(阿部=あべ)國」はなかったようだ。

「廬原國」が後に「阿部廬原國(あべいはらのくに)」となる。

「孝徳天皇大化二(AD646)年の改革ありて國郡(くにこおり)の制定めらる、此時安倍廬原國を廢して駿河國(するがのくに)を置かれ九群を立てらる、天武天皇二年(AD673)に至り二群を割き伊豆國(いずのくに)を置き、駿河を志太(しだ。岡部町は現在も志太郡。)、益津(ましづ。焼津市に同名の大字が残る)、有渡(有度=うど。有度山は、日本平のある山)、安倍(あべ)、廬原(富士川から興津川のあたり)、富士、駿河(現在の沼津市方面)の七郡に分ち定めらる。」「駿河國は古代は相武國(さがむのくに)に属せしが、景行天皇の御宇皇子日本武尊東征の後、足柄嶺より西を割て分國とし、始めて珠流河(するが)、廬原の二國を置きが如し。」


以上は、『静岡縣安倍郡誌』(大正三年八月十二日)の抜粋である。()は私の加筆したもの。

「安倍」と「阿部」、「有度」と「有渡」、「珠流河」と「駿河」など、漢字表記に変化があるのは、日本語には始めに音ありきで、漢字はあくまでも当てたものだからである。

つまり、7世紀の後半頃より「有渡郡(うどのこおり)」という地域が「駿河國(するがのくに)」の中にあったことになる。

これがどうやら、明治22(1889)年の自治制施行まで、あるいは明治11(1878)年1月の郡区町村編成法布告まで、同じ区分が続いていたようである。
(『Wikipedia』に「令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。」とある。)
明治初期の文献には、我が「静岡市中島」は「駿河國有渡郡中島村」とある。

明治21(1888)年5月、町村制が発布され、明治22年4月より自治制が施行された。
これにより、幾多の「村」はより大きな地域となる新しい「村」に括られた。この時より「静岡市」の市政も始まったが、当時は駿府城の城下町のみが静岡市だった。
そして「駿河國中島村」は明治22年5月1日より「有渡郡大里村」の中の大字「中島」となった。
7年後の明治29(1896)年4月1日より「有渡郡」は全て「安倍郡」となり、さらに「大里村」他が「静岡市」に合併されたのは、昭和4(1929)年であった。

「中島」のみを見れば、近隣の「西島」「西脇」(以上が現「中島小学区」)および「下島」とともに、寛永10(1633)年より幕府直轄領となり、元禄11(1698)年より「列侯瀧脇丹後守(小島藩主改)之を領す」とある。(『静岡縣安倍郡誌』)
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明治22年の静岡縣有渡郡大里村

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これが明治22(1889)年、自治制施行時の地図である。
現在と大きく異なるのは、「中野新田」の領域が不自然にも南に延びていて「中島」と「西脇」「西島」の間、かなり浜に近いところまで来ている点である。現在では、中島と西脇・西島の間に「中野新田」はない。
中島・西脇・西島は、西島の東隣の下島も含めて、元禄11(1698)年以降、瀧脇丹後守の領地だったというから、その関係なのか、あるいは浜川西岸に沿う領域であるし、地名が「新田」であるから、浜川西岸を新たに開墾して新田としたが丹後守さんはその開墾に関わりがなかったということなのかもしれない。

駿河の地に「丹後守」の領地というのは、『静岡縣安倍郡誌』(大正三年八月十二日)を紐解くまで知らなかったが、中島では、明治の前半ごろまでに生まれた人々の間で、「ありがとう」とは言わず、「おおきに」と言ってきた事実がある。この「おおきに」は、あるいは丹後の方からもたらされた言葉であるのかもしれないが、より広い地域で調査してみないことにははっきりしたことは言えない。

また、古代において、駿河國(するがのくに)が相武國(さがむのくに)に属したというのはなんとなくわかるような気がしないでもない。
同じ静岡県内でも遠州の浜松であるとか、愛知県に入って三河であるとかいった地域がなぜか非常に縁遠いところと感じるのに対して、相模(さがみ)方面はさほどでもない。もっともこれは、相模方面の人がどう思ってくれるかわからないし、あくまでも個人的感想にすぎないのかもしれないが、フォッサマグナの関係もあるのかもしれない。

フォッサマグナというのは、日本海側の新潟県は糸魚川から本州を横断して静岡に至る「糸魚川―静岡構造線」と思っていたが、実はその「線」はフォッサマグナの西端であって、実際には幅広く、明治26(1893)年にフォッサマグナの発見を論文で発表したナウマン博士の時にはその東端を直江津から平塚に至るまでの本州横断線としたそうだ。その領域内には、妙高山、黒姫山、八ヶ岳、富士山がある。
現在では東端が「新発田―小出構造線」および「柏崎―千葉構造線」となっており、東京都と房総半島も含まれるらしい。

いずれにせよこの“帯”は、東の北アメリカプレートと西のユーラシアプレートのぶつかりあった境界線だというから、日本が東西まっぷたつに分断されることになる。
静岡はその“帯”の西端で、地図上ではどちらかというと西に属するように見えなくもないが、文化的には東の影響が強いのかもしれない。いや、これもよくわからない。

駿河とはどこか

静岡市に「駿河区」と、正式に「駿河」のつく地域ができたことをおかしいと見る向きがある。

「駿河(珠流河)」とはそもそも、沼津方面から発生した地名であって、そのころの静岡市方面は「廬原(いはら)」あるいは「安倍廬原」の国であったのだから、その点から見れば確かに、「駿河」をもって市町村のように狭い地域を称するなら、静岡市ではなく沼津市の方が正統だということになるのだろう。

しかし大化2(646)年より、「安倍廬原国」は「駿河國」と共に一つの「駿河國」となる。今から1300年以上も昔の7世紀前半、奈良時代のことである。以来、我が「駿河区」は、「駿河國(するがのくに)」にあった。またその国府も、当初沼津の方(駿河國駿河郡駿河郷)にあったものが天武天皇9(680)年には静岡の方に移された。
また、「駿河國駿河郡」であった沼津あたりは、いつの頃からか「駿河國駿東郡」となってしまった。

こうしたいきさつを眺めて見ると、そもそも沼津そのものだった「駿河」が、なにやら西へ西へと逃げていったかのように見える。これでは沼津の人たちも面白くなかろう。

因みに、スルガ銀行は沼津市に本店があって、相模國方面にも多数の支店をもつ。
この際いっそのことスルガ銀行本店は静岡市駿河区に引っ越してきてはどうだろうか?

まあ冗談だが、地名など、しょせんは人間の都合で決めたものであって、神話伝説にどう言われようと、人智を超えた神の命名でなどあろうはずもないのである。時代が変わればその都合も変わる。これが世の常人の常。
(051128)