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五・一五チャップリン暗殺計画

今から73年前の昭和7年5月15日といえば、五・一五事件ですが、犬養毅首相が暗殺された直後の首相官邸を訪れ、畳の上に流された血がまだたまっているところまで目撃したイギリス人がいました。それがチャップリンなんですね。何とも大変な時に来日したものです。
五・一五事件の首謀者である古賀清志という海軍中尉は、来日中のチャップリンを暗殺することも考えていたそうで、 My Aoutobiography (1964) (チャップリン自伝)によりますと、Alfred A. Knopf という人の書いた Government by Assassination (1942) という本の中に、次のような裁判記録があるそうです。

JUDGE: What was the significance of killing Chaplin?
KOGA: Chaplin is a popular figure in the United States and the darling of the capitalist class. We believed that killing him would cause a war with America, and thus we could kill two birds with a single stone.

つまり、チャップリンを殺せばアメリカと戦争ができると考えたというんですね。
事件が起こったその時チャップリンは、犬養首相の息子である犬養健に国賓として招待されて相撲見物をしていたんですが、チャップリンがなぜ暗殺されなかったのかといえば…

The same prisoner said that the plan to kill Chaplin was abandoned because 'it was disputed whether it was advisable to kill the comedian on the sligt chance that it might bring about war with the United States and increase the power of the military'.

つまり、古賀中尉たちは、チャップリンを殺しても当初考えたような目的を達成する可能性は低いと考えなおしたということらしいです。
これについてチャップリンは、チャップリンがアメリカ人ではなくイギリス人だと知ったからではないかと、自伝の中で述べています。

この一件については、日本でもサスペンス小説が書かれたり、テレビドラマになったりもしてきているそうですが、残念ながら私は見たことがありません。

1932年、『街の灯』が公開された翌年のことです。
(050524)


五・一五チャップリン暗殺計画

昭和7年の初来日当時、チャップリンが全幅の信頼をおいていた日本人の秘書がいました。高野虎市さんという人です。
1916年からチャップリンに雇われたそうですが、チャップリンのトレードマークの一つである竹のステッキが日本製だったから高野さんを採用したのだとかいう話もあります。1916年といえば、チャップリンは Mutual 社でまだ短編を作っていたころで、共演するヒロインはいつも、エドナ・パヴァイアンス(パーヴィアンス)でしたね。
広島出身の高野さんはチャップリンよりも一つ年上で、チャップリンがイギリスからアメリカに渡る1913年よりもずっと早い1906年ごろからアメリカに住んでいて、アメリカで弁護士になるための勉強をしていたそうです。

実はこの高野さん、チャップリン映画にも出演していて、たとえば1917年の「The Adventurer (チャップリンの冒険)」では、溺れかけてずぶ濡れの人たちを車に乗せる運転手の役です。
かなりくさい演技で、いかにも素人だなという感じなんですが、あの完全主義者のチャップリンがよく出演させたなあと思わせます。
ちなみに、「The Adventurer 」には、アイスクリームも登場します。召使いがそれぞれ大きめの器に入れて、2階で語らうチャーリーとエドナに出すんですが、チャーリーのは全部ズボンの中に落ちてしまいます。それがさらに階下に落ちて、上品なおばさんの大きく開いたドレスの背中にべちゃり、ぬるぬるぬる…とお尻の方へ…。

ヨーロッパからの船旅で、第一の目的地だったバリ島に滞在してから、第二の目的地日本を訪れたときにも、もちろん高野さんが同行して、日本政府との連絡や通訳を務めたそうです。
高野さんのことについては、「高野虎市」または「Toraichi Kono」で検索すると、かなり詳しく書かれたページを見つけることもできますので、探してみてください。

1932年5月14日、チャップリン一行が船で到着したのは、神戸港でした。

In Kobe harbour we were greeted by aeroplanes circling over our ship dropping leaflets of welcome, while thousands cheered on the docks. The sight of numerous brightly coloured kimonos against the background of smoke-stacks and the drab grey docks was paradoxically beautiful. There was little of the reputed mystery or restraint in that Japanese demonstration. It was as excited and emotional as any crowd I have ever seen anywhere.
The Government put a special train at our disposal to take us on to Tokyo. At each station the crowds and excitement increased, and the platforms were crammed with a galaxy of pretty girls who loaded us with presents. The effect, as they stood waiting in their kimonos, was like a flower show. In Tokyo an estimated crowd of forty thousand waited to greet us at the station. In the rush Sydney stumbled and fell and was almost trampled uppon. My Aoutobiography (1964) (チャップリン自伝)

チャップリンが到着したことを知らせるビラまきの飛行機が上空を旋回したと書いてありますね。
それから着物の女性たちが出て来ます。このころの日本映画で「現代劇」を見ますと、都会でもまだほとんど着物でしたから、平成の現代と違って、チャップリンは「異国情緒」を大いに堪能したようです。
しかしそれも西欧化されて失われていくのではないかと心配したことも、自伝の中に書かれています。

日本政府は専用の列車を出してくれて、それで東京まで行ったようですね。駅ごとに群衆と興奮が増していき、たくさんのプレゼントをもらった、東京駅では概算で4万の大群衆がチャップリンを迎えたと書かれています。ものすごいことですが、チャップリンは、クラシック音楽や美術方面の芸術家ではなく、あくまでも大衆芸術としての活動屋、かつ世界一有名な大スターだったわけですから、その数も十分にうなずけるものです。

シドニーという名前が出て来ますが、チャップリンの実兄で、幼いころからずっと苦労を共にしてきた人です。チャップリンの映画にも端役で何度か登場しています。東京駅では、大群衆に揉まれて転んでしまい、踏みつけられそうになったとあります。
この時の様子を記憶しておられる方がいたらお話をうかがいたいものですが、おそらくもう難しいことでしょう。

チャップリンの自伝を読みますと、この初来日の時、秘書の高野さんはいろいろと機転を利かせて、どうやらチャップリンを危険から遠ざけようとしていたのではないかと思わせるところがあります。
皇居の前を車で通るときにわざわざ車から降ろして一礼させる(一般にそんな習慣は当時もなかった)など、奇妙な要求をしたというんです。日本政府から事前に情報を入手していて、極右勢力を敵に回さないためだったのかもしれません。
(050525)