縄文ネット アーカイブ



身内と他人の区別差別は人の道に反さず

人を生かすのが人のつとめと、簡単に言ってはみたが、生かすべき人というのがこの時代こうも多くなってしまっては、もう物理的に見ても地表のあらゆる人を平等にというわけにはゆくまい。

まず生かすべきはおのれであろう。おのれが生きる力において強靱でなければ、それ以外の人を生かすほどの力も発揮できぬ。
おのれが強くあり、まず身内を生かす、これも当然であろう。身内にかまわず隣の家を生かせば隣の家から好かれることすらない。
身内が一人残らず健やかならば、次は隣近所に困っている家はないかと気を回す、あれば助ける。これも当然であろう。そうして仕舞いには最も大きな身内に至るが、それが日本というこの国である。

「ひのもと」「やまとしまね」「あきつしま」「しきしま」「あしはらのなかつくに」「とよあしはら」「みづほのくに」「おほやしま」「ふさう」…などといった異名を並べれば、美称さえもが照れなく郷愁をさそい、おのが国こそおのれには最も良い国であると思いたくなる。それが人情というもので、我々は先祖代々その思いのもとに国を築き、子孫を繁栄させてきている。

「身内」の最も大きなもの、それがこの“葦原の中つ国”なのであるが、それを更に拡げて、「東アジア」であるとか、「自由主義国家」であるとかいう具合に「身内」を拡げ、さらには「地球人類みな兄弟」とばかりの美辞を掲げるのも理想ではあるが、あくまでも「まずは身内から」というのが本来であり順序であるから、日本にかまわず隣の国を生かそうとするような振る舞いは隣の国からの信用も得られない。もしそれをやるのであれば、ふるさとの身内や隣家あるいは日本の国や民から信任を得た上でやるべきであって、そうした当たり前の手続きを省いてはおのれが日本人ですらなくなってしまい、ましてや相手の国に信頼される可能性も薄い。

自国を否定して他国の肯定に走るような者がやって来たとき、そんな者を仲間に迎えることの危うさを誰しも意識と認識の筆頭におかねばならないのは、いかなる国・文化においても常識であろう。
身内やふるさとを否定する者に他国を肯定する素養などあり得ないのである。

さてこの時代は、地表に人口が増えすぎた、さあどうしようという段階に入った。貧しさゆえに飢えて死にゆく民があり、貧しさゆえに災害になされるがままの国がある。

ともあれまずは己が強い力をもつことである。
強い民が強い日本を作り、強い日本があってこそ、貧しい民や貧しい国に救いの手を差しのべられる。

しかしもし、かの国と日本と、どちらかしか生きられぬという極限に迫られれば、我々はまよわず日本を生かす道を選べば良かろう。身内は日本にあり、日本こそが身内であるのだから、自分と身内がともに死んで他人を助けようなどと思えば、それは神をも恐れぬ傲慢な態度と考えるべきであって、身内ごと命を投げ出すことに人の道などあるはずもないのである。

パキスタンの被災地では救援物資が不足しているというが、昨日のニュース映像でも、支給されたわずかな毛布を奪い合う被災者が映し出された。
大柄の男が二人の女と争って強引に毛布を奪って立ち去る様子だったが、彼を非難する資格をもつ者などいないのではないかと思えた。
彼には守るべき身内がいたはずである。もしそうでなくおのれ一人の欲望にまかせての振る舞いならば非難されて当然だが、彼には守るべき身内があったはずだ。身内を守るために毛布を奪い合ったのであれば、それはもう仕方ない。腕力の強い者こそが毛布を得て身内を守ることができるのである。そこで譲っていては、守るべき身内を守ることができない。おのが子供を凍えさせても他人に毛布を譲りましょうという態度を美しいと見ることなどできまい。
(051013)