アドマック出版からお知らせ2点 (2014.9.25)

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2 A思考とB思考

A思考:自分と人の存在を主とする思考
B思考:自分の持ち物や道具を主とする思考

この2つの思考は誰でも簡単に識別できます。これを識別してA思考で人と接するようになると、生まれ変わったように人生が輝き始めます。

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時制でなく「請け合い/受け止め」が文法の原理です。 (2009.2.12)

認識の主体と対象

「する/した」「ある/あった」などなどのペア。これはよく「現在形/過去形」とされていますが、それよりももっと深いところに、文法の本当の意味、日本語文法の本当の意味があります。

「す」「あ」などは、〈 認識の主体 〉と〈 認識の対象 〉という対立において、〈 認識の主体 〉が主役となる認識の形式。これを「請け合い」と呼んでいます。

「し」「あっ」などは、〈 認識の主体 〉と〈 認識の対象 〉という対立において、〈 認識の対象 〉が主役となる認識の形式。これを「受け止め」と呼んでいます。

この文法はもちろん仮説ですが、この仮説でないと説明できないのが、日本語の文法です。

たとえば「わかる/わかった」という発話をするとき、あるいは頭の中で「わかる/わかった」と思うとき、「現在(非過去、あるいは未来)」と「過去」といった、「時制」の文法では説明できないからです。「時制(テンス)」という文法も、あくまでも仮説です。「する/した」の文法的な語形変化がどうしておこるのか、仮説としての文法で説明してみようというのが「時制」なんですね。

同じように「請け合い/受け止め」も仮説ですが、上記のような説明で、あらゆる「る/た」や「だ/だった」「(良)い/かった」が説明できますから、時制よりもはるかに、文法の原理を説明していることになります。

また、「請け合い/受け止め」は、日本語ネイティブの私たちが、自分の心の感じ方を自ら観察して、実際に違いを感じ取ることもできます。

たとえば「わかる、わかった、わかる、わかった、わかる、わかった・・・」と、心の中で唱え続けながら、自分の意識がどう変化しているかを観察します。

すると先述のように、「わかる」では、「認識の主体」=「自分の深い部分」が、「認識の対象」=「わかり」という脳内の事象に対して押すような感じが観察できるのではないでしょうか。

逆に、「わかった」では、「認識の主体」=「自分の深い部分」が、「認識の対象」=「わかり」という脳内の事象から押されるような感じが観察できるのではないでしょうか。

この極めて単純な認識の形式が、「る/た」「だ/だった」「い/かった」の語形変化になっていると考えるのが、当サイトの文法です。「いや、そうではない!」とお考えの方は、もっと有力な仮説をご提示いただきたいと存じます。絶対に例外なく説明できる有力な文法が他にもあるのだとしたら、当サイトでも学ばせていただきます。

▼時制で説明できない発話例いろいろ

(1)「明日は火曜だった。」
(2)「19世紀半ばイギリスに渡る。」
(3)同じ時点で:「あ、見えた!」「あ、見える!」ともに発話される。
(4)「わかった?」への回答は「わかる。」「わかった。」ともにある。
(5)「見せものじゃないよ。さあもう帰った帰った!」

・・・などなど、「時制」で説明できない「る/た」の発話例はいくらでもあります。
時制で説明できない場合、別の説明を持ち出すのが従来の文法です。時制が仮に原理だったとすると、それら別の説明との間に矛盾が生じますが、「請け合い/受け止め」では、全てを同じひとつの文法でシンプルに説明します。

また、時制(時間の前後を示すという意味)についても、「請け合い/受け止め」によって、二次的に伝えることが可能です。

「請け合い/受け止め」の仮説を初めて公開させていただいたのは、大修館書店様の月刊誌『言語』1994年12月号です。掲載された原稿の全文を当サイトでも公開しています。 » 月刊『言語』'94.12月号

認識の主体と対象 (2008.12.4)

認識の主体と対象

私たちのあらゆる認識は、あらゆる事象を対象としています。あらゆる事象には、私たち自身の思考やひらめきも含まれます。それは自分自身の痛みや感情も含まれ、外界の事象と同列に認識されています。認識をおこなうのは、事象の発生も存在もない(と認識される)認識の主体です。

私たちは、私たち自身の本質部分である認識の主体と、あらゆる認識の対象との関係性を言葉や表情に表します。それはとても明確な表現です。言葉においては、文法的な語や感動詞などにして表しています。

日本語文法の最初歩 (2008.7.12)

「文法範疇」という、難しい言葉があります。「文法カテゴリー」ともいわれるものですが、ウィキペディアによれば、

「語を形成する原理の分類であり、同じ文法範疇からはただ一つが選択される。例えば時制は文法範疇であり、日本語の場合、定動詞は必ず過去か非過去のどちらかであり、両方であることはない。」

ということだそうです。やっぱり難しい。

難しいのはなぜか? それは要するに、私たちの実感から、あまりにかけ離れているせいでしょう。

日本語には文法があります。というのは、語彙として説明できない部分が、みんなに共有される法則や意味として、確かに存在しているということです。

「だろ?」
「まあな。」

日本語によるこんな会話が、会話としてちゃんと成り立つ(意味や気持ちを相互伝達できている)というのは、「山」「川」「海」などの、意味の説明や翻訳が簡単な語彙の部分以外のところで、「だろ」「な」といった、説明・翻訳が容易でない部分を発話し、聞き取って、互いに気持ちや心を伝え合っているからです。これを説明するのが、日本語文法を説明するということに他なりません。

ところが、先のウィキペディアの説明では、「時制」が「原理」であると、さも既成事実であるかのように書かれています。「時制」を、日本語文法の中の、原理として大事なものであると、さもそれは反論の余地のないことででもあるかのように、言い切ってしまっています。

これが、現状おこなわれている「日本語文法」の研究(あるいは研究の前提)なんですね。

しかしそれ、「時制が文法原理だ」って、いつから真実だと決まったんでしょうか。英語にも「do/did」というように、「現在形/過去形」というのがありまして、それを「時制(テンス)」としているんですけど、イギリスの、英語の本当のネイティブの人たちの話し方の中には、「時制」や「時間」では説明しきれない用法があるんだそうです。

説明できない用法については、「例外」とか、「例外的用法」であるとして、また別の「文法範疇」を仮定して説明するという手法も、文法研究ではおこなわれているようです。ということはつまり、「時制」というのは、原理ではないということになるはずです。

日本語文法でも、「時制」については色々と議論があるはずなんですが、それは英語以上に例外が多すぎるからですね。例外が多すぎる原理が原理でないのは明らかです。ですから、日本語文法の研究でやるべきことは、「時制」よりも深いところにあるはずの、本当の原理を見つけ出すことです。

当サイトの日本語文法に関する研究では、そのさらに深いところにある本当の原理を説明しています。日本語文法の本や研究論文を読んで、どうにも納得がいかないという皆さんには、きっと納得していただけるはずです。

一方で、例外だらけの「時制」を原理だと決めてかかっている人たちというのは、それは決して科学的態度ではなく、単なる「時制信仰」と呼ぶべきものですから、その信仰を改めていただくのは容易ではありません。

日本語文法は決して、「はじめに時制ありき」ではありません。日本語文法で一番はじめにあるのは、あくまでも「する/した」であるとか、「わかる/わかった」であるとか、「ある/あった」という、いずれも同じ意味のペアであるところの、「る/た」の対です。

この対(つい)については、私たち日本語を母語とする者は誰も等しく、なんの問題もなく、意味や気持ちを通じ合っています。動詞の語義が変わると「る/た」の伝える意味が変わるといった、これも日本語文法でよく前提とされる難しい小理屈も私たちの実感とはほど遠く、もっと極めて単純に、「る」を「る」とし、「た」を「た」として、その意味や気持ちを伝え合っているんです。

この対を説明するにはどうしたらいいか、というのが、日本語文法で一番最初に解決しなければならない問題です。「時制」という仮説を絶対視していては、いつまで経っても、一番初歩の、日本語文法の問題は解決しません。

日本語文法|感動詞と文法 (2008.7.16)

「まあ!」と言って驚くのが日本語の、女性の発話だとしますと、これとまったく同じ語「Mah!」という感動詞が英語にあるものかどうか、どうやらないのではないかと思われます。

同じように、「Hey!」という呼び掛けや驚きの感動詞が、日本語においても「へい!」という語としてあるものかどうか、それもどうやらなさそうです。

「まあ」や「Hey」といった感動詞に共通するのは、客観的概念を表すものではないということです。

語には、このように、客観的概念を表すものと、表さないものとがあるわけですが、「る/た」などのいわゆる活用語尾や、「は」「が」「を」などの助詞も、感動詞と同じように、客観的概念は表しません。

「る」は現在(非過去、未完了)、「た」は過去(完了)を表す、としてみたり、「は」は主題、「が」は主格を表すとしてみたりするのが、これまでの日本語文法なんですが、客観的概念を表すのは、副次的な機能としてならあるかもしれませんが、その根本的な意味としては、決して客観的概念などではなく、あくまでも、感動詞などと同じような、主観的な、認識の形式を表すとするのが、当サイトの日本語文法の研究です。

日本語文法|日本語の文法的形態素を説明する新たな枠組み (2008.7.13)

従来の日本語文法の研究が致命的なのは、客観的語義として説明されるべき事柄と、非客観的語義(主観的な認識の形式)としての意味を伝達するものとして説明されるべき事柄とを、ごちゃ混ぜにしてきたことではないかと思います。

いわゆる、意義素(semanteme)と、形態素(morpheme)とを、その説明のアプローチにおいて同等に客観性を保とうとすることは、いたって科学的な姿勢、なんだろうとは思います。

しかしながら、文法的な形態素の伝える意味というのは、話者自身の、主観的で説明できぬ感じ方をそのままに発し、それでいてちゃんと通じ合うものですから、その「主観的で説明できぬ感じ方」とは何なのか、これを追究し、説明できるようになってこそ、問題は解決の方向に向かうはずなのです。

当サイトの研究では、それを便宜的に認識の形式と呼ぶことにしています。

たとえば簡単なものとして、次のようなものです。

何かを考えていて、頭の中に、「!」で表されるような、「発見」ないし「気付き」の類が生じたとき、「あ!」と発話する。

このとき、認識には次のような状態の変化がある。

一定の目標に向けての持続的な思考 → 思考目標へのある種の到達という認識=「あ!」

以上を、認識という行為で説明すると・・・

持続的な認識 → 到達的な認識

これが認識の形式ですが、この例では、「到達的」とはいっても、思考する人が自ら予測可能だった自発的で能動的な到達ではなく、自分の思考という行為を自分で認識の対象としていて、その認識対象としての思考が急展開して決着する、ないしは目の前が急に開けて次のステージが向こうからこっちに現れるというような意味での「到達」になります。

認識には常に、認識の主体と対象という対立があって、その一方でも欠ければ認識は成り立ちませんが、認識の主体というのが、主体自身以外のあらゆる事象を認識の対象としており、それには記憶や思考といった、認識者の脳内の活動も含まれます。

「わかる/わかった」
「ある/あった」

上の二つのペアでは、「わかり」という思考の事象と、「有り」という外界の事象とを一切区別せず、どちらでも全く同じ「る/た」をもって意味伝達を行っているという事実がありますから、「わかり」も「有り」も、共に等しく認識の対象であるといえるわけです。

“同型で、統語上も同じ用法の形態素は同じ認識形式を表す” という命題を、当サイトでは前提としておりますが、それは、形態素に表わされる意味を、意義素の説明でおこなうような客観的語義(「現在/過去」などがその代表)をもって説明しようとするところに無理があるとする立場です。意義素の意味とは、客観的にカテゴライズされた語義ですが、一方で、文法的形態素の意味とは、話者と話者の属する集団が時に説明困難な意味をもった語そのものによってほとんど無意識に区別している認識の形式であるという考え方です。「る/た」の「る」の意味とは・・・「る!」としか言いようがない。というような意味が、認識の形式です。

日本語文法の、とても単純な原理を説明するサイトです。 (2008.7.7)

日本語文法の真実は何かということは、大昔から色々と研究されてきているようですが、無意識に使われ、使い分けられる深い部分というのがありまして、そこがどうしても説明できないために、ずっと混迷を続けている。それが日本語文法研究だと見ていいのではないでしょうか。

私たちが日常使わずには暮らせないのが日本語文法であり、子供でもちゃんと使えて、誰でも互いに、ちゃんと気持ちを伝え合っています。ですから、極めて単純に説明できなければ嘘なのです。

しかしどうやら、現在までおこなわれてきている日本語文法研究というのは、複雑怪奇で、専門家にしか理解できないもの、みたいですね。

「ああ、そうだね。その通りだ。」

と、誰でも納得できなければ、日本語文法を説明したことにはなりません。それなのに、難しい用語を暗記しないと日本語文法がわかったことにならないなんて話だとすれば、それは日本語文法とは名ばかりで、真実の日本語文法とはちょっとずれているということになるのではないでしょうか。

「日本語には文法なんてない!」という人がけっこういます。どうしてかといえば、それはつまり、学者の先生方が説明してくれる「文法」が、現実の日本語を説明できていないという実感からくる感想なんです。

「説明できていない」というのは、先生方のあらゆる説明に関してではなくて、ちゃんと説明できている部分もあるんです。ただ、日本語文法の、間違いなく一番重要な部分、日本語文法の体系の根幹となる部分に関しては、単純明快な説明がどこにもありません。

その根幹というのが、当サイトで主に扱っている、「見る/見た」の「る」と「た」であり、「見れば/見たら」の「れば」「たら」のような使い分けです。

日本語文法や言語学について、もしなんの予備知識もなく、ただ実際に使われている日本語を観察して分類するなら、「る」と「れば」には共通点があり、「た」と「たら」にも共通点があることがはっきりわかります。「る」と「た」が一対で、「れば」と「たら」が一対になっていることもはっきりわかります。それは明らかなことなんですが、そんな明らかな事実よりも、学者先生たちにはもっと大事なことがあるようで、その「大事なこと」が、どうやら、日本語文法の真実に近づけない最大の障害になっているんでしょうね。

当サイトでは、日本語文法の、とても単純な原則を説明しています。中でも、1冊の書籍原稿として『本当の意味』と題するものを公開しております。学説とか論文とかいった、難しいものではなくて、ちょっと面白い読み物を目指しておりますので、楽しんでいただければ幸いです。

『本当の意味』を読んでみる »

日本語の意味、日本語文法の意味。 (2008.5.30)

私たちの日本語、その根幹部分、つまり文法は、他の言語から侵略をほとんど受けていません。語彙はいくらでも海外その他から採り入れていますが、日本語文法は、ほとんど変わっていないのです。当サイトは、日本語文法とは何か、日本語の本当の意味は何かを解き明かします。

日本語文法|言語が思考を決めています。私たちの日本語文法も、私たちの思考を決めています。 (2008.7.16)

私たちの思考は、蓄えられた概念と、その概念を意味する語、そして、それら語を組み合わせ、また関連づけて発話するための文法とによって、行われています。

つまり、思考は言語に依存して行われるものだということです。

ところが、輸入された異言語の文法概念をもって、日本語文法を論じようとする試みが、過去には行われていたことがあります。

語彙レベルで見れば、例えば「稲」に関わる豊富な語彙をもつ日本語と、それが決して豊富ではない英語との違いは明らかです。「稲」「米」「飯」のどれもが、英語では「rice」で表され、日本語に対応した意味を表そうとすれば二語以上の組み合わせによることになります。もちろん、逆に英語では豊富で、日本語ではひとつの語が全てを表すというものもあります。語彙というものは、各言語の行われてきた土壌、文化によって、概念の分類が異なるわけです。

同じように、文法においても、各言語の文化が異なれば、文法範疇(文法的概念)も異なるのが普通です。

ところが、日本語文法の研究が始まった段階、つまり、これから日本語文法の研究を、基礎から積み上げていかなければならなかった段階において、いきなり西洋言語の文法範疇を借りて、その最も基礎となる部分にある「時制」が、日本語にもあると断定してしまったところに、日本語文法研究の悲劇があったのかもしれません。

本サイトの研究は、実は西洋言語にあるとされるテンスやアスペクトについても疑念をもって見る立場です。日本語文法における「時制」が、文法範疇と呼ぶべき原理の類でないことは明らかであると見ております。

「る/た」のペアは、テンスやアスペクトと呼ばれる意味合いを表現する機能を有しながらも、それを表現する機能そのものが、文法範疇ではないのです。

真の文法範疇は、そのさらに深奥にあります。

それが、主観と対象の対立関係であり、主観と対象のどちらが主導的かという、認識の形式なのです。そしてこの認識の形式もまた、言語に依存して行われていると考えられます。文法が、言語によって根本的に異なることは、決して例外的事例ではないからです。

例えば、「わかる/わかった」のペアであれば、「わかり」という認識の対象(話者自身の思考も、外界の事象同様に認識の対象として、私たちの認識は行われています)が主観と対立し、主観が主導的であれば「わかる」となり、対象が主導的であれば「わかった」という発話になります。